限界集落<畑山>で見る明るい未来

2012/08/07

高知県東部、安芸(あき)市の山あいに
畑山(はたやま)という集落があります。

市街地から透き通った安芸川を上流域へ20km。
谷底を縫うように、のみで削りとったような県道が続きます。

かつてあった途中の集落も今は「全滅」し、
県道の行き止まりに約40世帯が暮らしています。

 

人口は約60人。
平均年齢は70歳を悠に超えています。
はい。世間で言う「限界集落」です。

 

 

 

そんな限界集落で
地域の再興を夢見る靖一さんのもとへ嫁いできて2年が経ちました。

 

限界集落の「限界」を感じることも多々ありますが
靖一さんと思い描く畑山の未来は、
なかなかに楽しい世界が広がっています。

 

 

 

もともと、畑山には縁もゆかりもなく、
靖一さんがいなければ、巡りあうこともなかった集落だと思います。
大学時代、故郷で生きる道を模索していたころ、
偶然が重なり、運命の出会いがありました。

 

 

私が生まれ育ったのは
愛媛県宇和島市遊子水荷浦という
小さな漁村集落です。

 

家の前には、海が広がり
家の後ろには、段々畑がありました。
家業は魚類養殖業でしたが、
段々畑でじゃがいもや柑橘なども栽培していました。

 

私が幼いころは、養殖業が盛んで
家を継がせたい大人たちは、息子に高級車を買い与えたり、
新築の家を建てたりして、
後継者確保に躍起になっていました。

 

けれど、養殖業が振るわなくなった途端、
「勉強して都会に出て行け」と言うのが口癖になっていました。

 

結果、千年は続いたであろう集落も
ほんの僅かな時間で崩れ去ろうとする様を
目の当たりにすることになりました。

 

私たちが在籍していたころは200人超の児童がいた母校ですが、
10年経つと、60人程度に激減してしまいました。
50人近くいた同級生の中で
跡継ぎとして実家に戻ったのは数人なので
増える要素は少ないのです。

 

我が家は、私が小学生の時に養殖業を廃業していて
継ぐべく職業はなくなっていました。
それでも、生まれ育った故郷で暮らしたい
と思い続けていました。

 

なぜか…。
田舎暮らしが楽しかったからです。

 

家の前に海があり、家の後ろに山がある。
遊び場の宝庫の中で暮らせるんです。

 

 

夏は、朝から晩まで海の中。
道路や船の上からダイブしたり、
海中に潜って、貝を採ったり、
クラゲを捕まえて、友だちと投げ合ったり…。

 

夜になれば、釣り竿を持って桟橋へ。
歩いて数分。

誰かが釣れ始めたのを、
自分の部屋の窓から確認して出かければ十分。
1時間で100匹超のゼンゴ(コアジ)を釣る夜もあれば
じぃちゃんたちや県外から来た釣り人と世間話をしながら、
イカや太刀魚を釣る夜も。
時には、じぃちゃんに船を出してもらって沖釣りへ。

 

夏だけでなく、
春には春の、冬には冬の遊び方があったし、
自分が採ってきたものを食べる楽しみがあったんです。
そんな楽しい生活を捨てて、
都会のビルの中で暮らすことは
私には向いてないと思っていました。

 

なので、故郷で生きる術を見つけ出したい
と東京の大学で学んでいる間は
全国各地の農山漁村を訪ねていました。

 

ただ、臆病者の私にとって
初めての土地に一人で出かけて行くのは
けっこう大変なこと。

 

なので、友だちや知り合いの紹介であったり、
まちづくりの師匠たちのカバン持ちであったり
何かの理由を見つけては、出かけていました。

 

そして、大学3年の時に
畑山へたどり着きました。
国土交通省と富士通総研の
「ボランティホリデー」というモニターツアーに
参加したことが契機となりました。

 

参加者は、全国各地の農山漁村に割り振られ、
私はたまたま高知県、
そして、たまたま安芸市に
割り振られたのでした。

 

当時すでに、テレビや雑誌で
靖一さんは取り上げられていましたが
私はまだ、畑山という地名どころか安芸市の読み方も、
土佐ジローが地鶏だということも、
小松靖一という人のこともまったく知らない状態でした。

 

安芸市に滞在した1週間のうち
畑山で泊まったのは1泊だけ。
けれど、畑山で孤軍奮闘する靖一さんが
気になる存在になるには十分でした。

 

大学を卒業して、地元紙の記者になってからも
年に1度は、畑山を訪れるようになりました。

 

ある年のこと。
平成8年に廃校になった小中学校の体育館に
絵本や文庫、辞書などがたくさん集められていました。
すべて全国各地からの寄贈本。その数3万冊。

 

 

翌年。
図書たちは、校舎の1階に移されていました。
教室ごとにアレンジされた本棚。
壁面に展示された絵本。
子どもの目線に隠された椅子。
おしゃれな図書館が、そこにはありました。

 

 

その後も、戦国期の畑山城跡への散歩道が整備されたり、
教員住宅跡が簡易宿泊施設になったり、
靖一さんが指定管理者として運営を始めた
土佐ジロー料理を提供する「畑山温泉憩の家」のお客さんが
年々増加し、宿のノートにびっしりと感謝の言葉が書き込まれていたり…。

 

私好みに変わっていく畑山に惹かれていました。
それでも、靖一さんとは25歳の歳の差があるし、
畑山には、靖一さんより若い人は数えるほどしかいないし、
保育園も小学校もないし…。

 

不安なこともたくさんあり、
畑山への移住を頭の中で思い描いては消す作業ばかりしていました。

 

 

けれど、靖一さんほど価値観が共有できる
パートナーに巡りあう機会は無いだろう
ということで、文字通りの「押し掛け女房」で
畑山へ移り住んできました。

 

靖一さんに打診して結婚までが半月。
会社を辞めるまでに3ヶ月はありましたが
2010年10月には、晴れて畑山へ。

 

限界集落での経済活動に「限界」を感じることは多々ありますが
畑山での可能性は無限大に広がっていきます。

 

そんな畑山での暮らしの様子を
いなかパイプを通じてもお伝えすることができれば…
と思っています。

 

どうぞ、宜しくお願いします。

 

 

 

 

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