いなかパイプ 「いなか」と「とかい」のパイプWEB

東京女子が豪雪地の限界集落への移住を決めるまで ~前編~

2017/03/27


 

 はじめまして。NPO法人十日町市地域おこし実行委員会の福島美佳といいます。いなかパイプでは、同じNPOの多田朋孔(ともよし)が記事を書いていますが、私も今回加わることになりました。

 十日町市の魅力や移住、地域おこしについて書いていこうと思いますが、私も2011年に東京から移住した「移住嫁」なので、まずは私のことについて書いていきたいと思います。

 

ポップコーン売り

多田さんと一緒にポップコーン売り!

 

 

「ふるさと」のない東京女子だった私

 

 初めて会うひとから、「どこの出身なの?」「どこで産まれたの?」「実家はどこなの?」とよく聞かれるのですが、実はこの質問、どう答えたらいいのかいつも悩みます。なぜなら、出身は東京と言っていますが、産まれたのは和歌山県で、実家は現在大阪府にあるからです。ね。ちょっとややこしいでしょ?苦笑

 

 私の両親は、父親が和歌山県和歌山市出身、母親が大阪府泉南市出身。母が私を妊娠中、父の仕事の都合で東京に引っ越したため、母が里帰り出産をして和歌山の病院で産まれました。育ったのはほとんど東京ですが、父親はいわゆる「転勤族」だったので、いろんなところを転々としました。

 幼少期から中学2年生の1学期までは、東京都大田区。中学2年生の夏休みのときに、父親が徳島に転勤になり、中2の2学期から卒業するまでは徳島県徳島市にいました。

 高校受験前に父親の東京転勤が決まったので、東京の高校を受験。高校3年間と大学3年生が終わるころまで、東京都品川区の社宅に暮らしました。社宅が廃止になったので、大学3年生の就活中の最中、東京都大田区(中学まで住んでいたところとは別のところ)に移りました。

 

 こんな調子で、十日町に移住するまでの25年のうちに、引っ越すこと3回、4ヶ所のところに住みました。盆正月には和歌山と大阪の祖父母の家に帰省していましたが、それは「自分のふるさと」というより「祖父母の家」「両親の実家」という感覚でした。ちなみに、私が十日町に移住後に父親が早期定年退職し引越しをしたので、現在実家は大阪という訳です。

 

 住んでいるところを転々としていると、私の潜在意識の中にこんな気持ちが芽生えます。私には「ふるさと」と呼べる場所がない…。自分のルーツとなる場所がなく、根無し草的な意識がありました。

 そんな東京女子だった私は、大学4年生の春、初めて「自分のふるさと」と思える場所に出会いました。それが、移住先の十日町市池谷集落です。

 

 

東京女子、限界集落に出会う

 

 私は大学で英語教育を勉強していて、国際志向が強く、いつか国際協力の現場で働きたいと思っていました。しかし、憧れで考えているところが大きかったので、実際の現場を見てみようと思い、大学の制度を利用して「ジェン」という国際協力NGOでインターンシップをさせてもらうことになりました。大学3年生の夏休みの一ヶ月間、東京の飯田橋にあるジェンの事務所に通って、職員の仕事のお手伝いをさせていだきました。

 当時、ジェンは2004年に発生した中越地震で被災した池谷集落の支援を行っていました。私に池谷集落を教えてくれたのは、ジェンの職員の皆さんでした。その時の私は、「地方」や「田舎暮らし」にまーったく興味のない人間でした。

 しかし、ジェンの職員の方が、「とっても自然の綺麗な場所だよ!」「お米もお水もおいしいし、村の人もとってもいいんだ!」と池谷集落を絶賛していたのを聞いて、「なんか面白そうな場所だな…」と興味を持ちました。

 そして、就職活動が落ち着いた大学4年生の春に、ジェンが行うボランティアイベントに参加し、初めて池谷集落を訪れました。

 

池谷集落

向かいの山からみた池谷集落

 

 

 東京育ちの私にとって、とにかく衝撃の連続!! 見渡す限り緑の山! 70代前半なのにシャキシャキ動く村人! おいしいご飯! お水! 日本酒!笑

 3泊4日の日程でしたが、すべてが初めて見るもの、やること、知ることばかりで、とにかく楽しいったらありゃしない。村人との交流会では、すっかりおじいちゃんと意気投合して肩を組んで、「お前!また来いよ!」と言われるほどに。

 

 中越大震災以来、何百人というボランティアが訪れたことによって、当時から池谷集落はヨソモノに非常にオープンでフレンドリーでした。しかし、2007年当時、住民は6世帯13人。ほとんどが70代以上の、いわゆる「限界集落」でした。過疎高齢化、農業の後継者不足といった状況、消えゆく日本の原風景を見て、都会育ちっ子の私の意識に何かが芽生えました。

 

「自分に何ができるかわからない。でも、池谷のために何かしたい」

 

そう思い、その後卒業するまでに夏冬と訪れて農作業や雪かきのお手伝いをしました。そして、内定していた企業に就職。次に池谷に訪れたのは、就職後1年半してからでした。

 

用水路の掃除

初めて池谷集落でボランティア。用水路の掃除をお手伝い。(真ん中のオレンジパーカが私)

 

記念撮影

村人やボランティアたちで記念撮影。

 

 

この集落、なんだか面白い!!

 

 2008年にWEB求人広告の会社に入社し、営業と制作事務を経験しました。就職してからはとにかく仕事に慣れることに精一杯で、あっという間に1年半が過ぎました。ようやく仕事に慣れた頃、ふと池谷集落のことを思い出します。

 

「池谷集落は、今どんな感じになっているのかな…。」

 

気になった私は、またジェンのボランティアとして池谷集落を訪れることにしました。

 2009年秋、久しぶりに訪れた池谷集落は色々と驚くべき進化を遂げていました。まず、じいちゃんばあちゃんばかりだった池谷に、若い男性が加わっていました。神奈川県からやってきた農業研修生のM山さんが、ボランティアの拠点として改修された旧池谷分校に住んでいました。

 M山さんは村の中にすっかり溶け込んでいて、村人から叱咤激励されながら米作りを学び、夏には集落の盆踊りを30年ぶりに復活させるという大活躍をされていました。

 さらに、空家だった一軒家の改修が進められていて、翌年の2010年に地域おこし協力隊が移住することがほぼ決まっていました。その地域おこし協力隊が、多田朋孔さんです。多田さんは当時3人家族で、奥さんと2歳の息子さんがいらっしゃいました。(現在は子供が増え、5人家族になりました!)

 6世帯13人の限界集落に若い人が住むなんて、また小さい子供を含む家族が移住してくるなんて、移住がまだまだ珍しい当時では、本当に衝撃的なことでした。

 

「この集落はなんだか面白い! これからも、もっともっと面白くなりそうだ! その面白いことを見逃したくない!!」

 

とにかく面白いことが大好きな私の直感がそう叫びました(笑)。

 考えた結果、私は月に1回池谷集落を訪れることにしました。通うことにはしましたが、当初はまだ移住をしようとは考えてもいませんでした。

 ではなぜ、移住を決意したのか、後編に続きます!!

 

 

▼コメントをどうぞ

    • 新潟・十日町で短期滞在しませんか? 詳細はこちら

    • 福島美佳