アナログに向かって その1

2012/10/10

 

こんにちは、サーフショップケーアイツーサーフ川村です。

いよいよ秋らしくなりましたが、うねりもよく届いた今月は久礼のポイントもサーファーでにぎわい、
平日なのにサーフィンしている人がいっぱいいました。
後れて夏休みをとってるのかな? それもまたいいですよね。

 

 

と、そんなサーフショップらしいご挨拶はこの辺で。
私としてはやはり定番ではあるのですが”読書の秋”です。
今ハマっているのが吉川英二の『新・平家物語』
ハマりすぎて先日は家族旅行も兼ね、宮島まで行ってしまいました。

 

 

夜はライトアップされた朱の大鳥居。

宿泊したホテルで夜の観光ガイドが無料で行われていたので、それも楽しんできました。
ガイドさんが沖縄のおばぁのようだったことが、ちょっと謎です。
広島の方言ってこんな感じなんでしょうか?

 

さて、方言といえば。

 

歴史小説を読みだしてから、ハタと気付いたことがあります。
方言て昔の言葉の名残ではないか、と。

 

歴史小説の中にも方言について書かれている部分はあるのです。
義経が東北方面へ行ったら、強い東北訛りがよく理解できなかった、など。
が、そうではなく、文中の話し言葉の中にわりと出てくる言葉で、
【暫時(ざんじ)】(すぐに)、とか【行方(ゆきかた)】(ゆくえ)。
方言としてではなく普通の話し言葉として時々出て来ます。

 

土佐弁だと思ってたけど昔はみんな使っていたのかなと思いました。

 

言葉だけではなくて、昔の生活の仕方が地方ほど残っているなと思ったのは高知へ来てすぐ

わかったことですが、例えば土間だったり釜戸だったり薪のお風呂だったり、ぼっとん便所だったり。
私の母の実家はほぼ青森よりの岩手なのですが、その祖父母の家もぼっとん便所に薪のお風呂、

今でもそうです。

 

今は電気も当たり前のようにあるし、日本だけでなくて世界中どこへでも行けるようになったし、
どこにいてもほぼ、誰とでも話もできるようになったし、考えてみたらものすごい時代になっていますが、
最近は特に、それと比例して人間が体力も知力も第六感も全てにおいて、

人間そのものの生きる力が弱くなっているなと思います。
もちろんそれは自分も含めてなのですが。

 

歴史小説を読んでいると特に感じます。
日本中を歩いて移動することから始め、何でも人間の手と物理的な力を駆使して建物や道具、

器具などを作ったりして。
電気もガスも水道もなくて、医療と言えるような技術もまだなくて、

それでもずっと昔から現代まで命をつないでこれたわけですが
たくさん勉強して研究して進歩して便利にはなったけれど、その恩恵にあずかっている子孫である私たちって
電気もガスも水道も、医療技術も何もかも当たり前のように感じていて、しかも、ちょっと歩けば疲れて足が棒の

ようになるし、ずっと正座もしていられない。
食べるものはいつでも豊富にある、残して捨てることに罪悪感も感じない、保存の仕方も楽になった。
年中ちょうどよい温度に保たれた室内、ちょっとでも風邪をひいたら薬はすぐ手に入る。
便利になったら手間がかからなくなって、不快な気持も減った。 なのに、なのに、不景気で、仕事もなくて、

お金もなくて・・・豊かなのに心はなぜか物足りない。

これって何かが不自然だからじゃないのかな、と最近思うのです。
市内のほうもそうだし、東京だともっとそうなのじゃないかと。

 

ちょっと前に坂本龍一が”たかが電気”と発言したことの意味を説明している記事を見ました。
最初の”たかが電気”発言を聞いてないし、どんな反響があったかもよくわかってないのですが、
昔は電気もなかったんですもんね。 ろうそくの明かりだけ。
それでも生活して来れて、もちろんもう時代は違うんだけども、命を危険にさらしてまで電気が必要か?

となったら、確かに”たかが電気”だなぁと私も思います。

 

これだけ豊かになって電気の恩恵ももちろん受けて、進歩の恩恵をかなり受けてはいるけれども
なんだかすごく不自然になってきている感じがするのは、私だけかな。
と、最近よく思うので、スマホをもたない理由の一つに加えようかなと思います。

 

 

 

 

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