僕が言う「仕事をつくる」ということ
- 執筆者 佐々倉玲於
- 所 属一般社団法人いなかパイプ
2012/10/18
お久しぶりです!レオっす。
他のみんなが3周目、4周目になろうとしていますが、
僕もやっと2周目を書くことができました!
が、やっぱり、文章を書くのは苦手です・・・
前回の記事で書いたように、僕は自分の仕事が何なのか、解き明かすべく
記事を書いていきたいと思います。
今回は、僕がよく言う「仕事をつくる」ということについて書きます。
自分の仕事は自分で用意して移住
3年前、僕は、沖縄で四万十ドラマの畦地社長に出会い、社長が飲み会の席で、冗談的に言った「帰って来い」という言葉から、いろいろ考えて「タイミングかもしれないな」と感覚的に思って高知・四万十に行くことに決めた。
畦地社長は「来い」とは言うものの、本当に来るとは思ってないだろうなと思いつつ・・・
四万十に行くことを決めた僕は、行くと決めたからには絶対行ってやる!と思い、
僕が帰ることが負担にならないように、断られないようにしようと思って
「給料はいりません。自分で仕事とってきますから~」と言いながら移住に向けて動き始めた。
▲沖縄で出会った当時の畦地社長
余談ですが、
「仕事は大丈夫ですが、住むところは紹介してほしい」とは伝え
畦地社長も「それは大丈夫!住むところはあるある」と言っていたと思う
が、行ってみると住むところがなかなか決まらず、道の駅の2階に住むこと2ヶ月。
考えてみると、このころから空き家はあるものの
やっぱり意外と貸してもらえない、住宅不足だったんだな~
と改めて気づくわけです。
話を戻して、
沖縄で培った経験から、自分で仕事をつくれるはずだ!と、
妙な自信を持って、勝手に帰ることを決めていた僕は、
沖縄にいる間に、自分の仕事にできそうな国関連の
委託事業の公募を探し、「四万十ドラマ」の名前を使って、
申請書を出させてもらい、見事、採択の通知をゲット!
そして自分の人件費もゲットすることができた。
そうやって2009年1月に帰る覚悟を決め、5月には四万十に移住していた。
国の事業が決まった以外のことは何も決まっておらず
その後の保障があったわけでもなく、2年、3年と続く仕事があるわけでもない。
普通の人ならば、きっと不安になるのだろうけれど
その当時たぶん僕は全く何も考えていなかった。
ただただ、直感。なんとなく、このタイミングにのった方向に答えがある、と思っていたと思う。
でも、これが高知プロジェクトの全ての始まりで
田舎で「仕事をつくる」ということの始まりなのだと思う。
「タイミング」「勢い」「覚悟」僕にとっての大切なキーワード。
▲沖縄を離れるときに開いてもらった壮行会の集合写真。
ここに写っているような沖縄の皆さんに育ててもらったから今がある!感謝感謝の1枚。
移住したら仕事がいっぱい!
四万十に移住した僕は、とりあえず、自分がゲットした国の仕事だけ専念して、ゆっくりやっていこうと思っていた。 が、しかし、そんな時期は最初の2~3ヶ月くらい。
はじめは、地域や組織に慣れるため、頼まれる仕事はなんでもやろう!とやっていた。
来た当日は、ゴールデンウィーク真っ只中で、ごったがえす道の駅。
メロンパンを売ったり、焼そばを売ったり、アイスクリームの前に並ぶ列を案内したり
人が来すぎて断水が起こる!なんていうことも勃発し、
役場の人たちもかけつけ、タンクに水を手動でくみ上げたり・・・。
僕が最も苦手とする単純作業もやった。
それは「ひのき風呂」という商品の焼印の検品作業。
ソトコトという雑誌の付録になるということで四万十ドラマが大量注文を頂いた。
通常のひのき風呂よりもオーダーをもらった焼印が細かすぎて
焼印がうまくいかないものが続出するという事件が勃発し
それらを1枚1枚チェックするという検品作業を手伝った。
1日中やっていると、手の指紋がなくなってくる。
ソトコトの付録に自分が関わるなんて思ってなかったので、
それはそれで面白かったんだけど
やりながら、こんなことも全て手作業でやっていて、
こういうことが、田舎の仕事にもなっているのだと実感させられたのだった。
▲ソトコトの雑誌はコレ。
▲付録はこんな感じ。
そうこうしていると、「この書類をつくってくれ」「プレゼン資料を用意して」
などなど、段々仕事がデスクワークになってきて
それらをちゃっちゃとやっちゃうものだから
そんな事務職系な仕事がやってくるようになり
いつしか「レオは書類をつくれるやつだ」的なことになり
そんな仕事が増えていった。
そして、行政の事業のコンペの申請書などを書くようになり
書いて、採択されたらやらんといかんよね~
ということで、その事業をやったりすることになり。
ゆっくりやっていくなんて言ってられない状況になっていった。
そうやって、自分ができることが仕事になっていく。
「仕事をつくる」という意識でなくても仕事がつくられていく。
田舎に移住して、仕事は何にもない、なんてウソです!
やれる仕事はいっぱいあるけど、やっていないだけ
やれる人がおらんだけ。
そして、仕事はつくれるのだ!!
3年たったら、8倍!!
移住して、3年が経った。
四万十ドラマの仕事をフリーランスとして手伝いながら
2年前に一般社団法人いなかパイプをつくり現在
たった1人から始めた「レオプロジェクト」は
今や、最盛期!総勢8名のスタッフで運営されている。
短期雇用のスタッフもいるけれど、今年度は8名!
何もやらなかったらゼロだったけど、1人の悪あがきの結果
よく考えると8名分の「お仕事」をつくったことになる。
そして、この最盛期に、どんだけ次の仕事をつくり、
その成果を次に活かしていけるか、
今年度、勝負の年でもあるわけです。
そうやって、綱渡りかもしれんけど
なんとか食いつないでいき、仕事をつくり続け
いつか左ウチワになれたらいいな~
と思いながら生き延びていく人生を、僕は選んでいることになる。
地域コミュニティに入ってやっていくということに
沖縄で約10年かかったことだから
四万十でもそれぐらいかかるだろうな~と思っていたけれど
意外にも、高知では、3年でなしえている、このスピード感。
これは、地域に何もつながりのない若者がポッと入って動くのと
四万十ドラマのような地域につながりを持つ組織に関わりながら動くのとの
違いだと思っている。
つまり、地域の方々がこれまで築いてきた信頼関係の上にのっかって
仕事をさせてもらったら、こんなに早く次の仕事が生まれるということ。
今の僕があるのは、沖縄でも高知でも、
ほんと、関わってくださる地域の方々のおかげとしか、言いようがない。
感謝感謝だ!!
▲5月にやった結婚式の写真
よく考えれば3年で結婚まで!たった3年なのに、こんな盛大な結婚式を開いて頂いて感謝感謝!
3年かけて、やっと農業法人もできた!
3年前からやり続けている仕事、プロジェクトの一つに
「四万十の栗再生プロジェクト」というものがある。
四万十川中流域は栗の産地で、昔は500tくらいの栗が採れていた。
が、現在は、高齢化や獣害被害、台風、輸入栗の影響などなど作る人が減り、50t。
でも、この四万十栗は糖度が高くて、大粒で、うまい!
ということで、買いたいという事業者は多く、栗が足りないという状況がある。
これをなんとかして、栗を増やして再生していこう!というプロジェクトだ。
農水省の補助金を活用させてもらって、このプロジェクトの事務局を
わけもわからず担って、栗のことも勉強して、勉強して、
農水省のお役人さんたちともバトルを繰り広げながらやりこなし、
あっという間に3年が経ち、今年4年目。
初年度に掲げた構想が、実現に向けて着実に動いている。
その構想の中にあった農業法人をつくるということが
この9月に実現した。
▲四万十の栗再生プロジェクトの構想図
やろう!と言ってから3年。早かったのか、遅かったのかわからないけれど
様々な取組みをやっていく中で、関わる人たちがやる気になってきて
覚悟を決めて、お金も出して、改めて、やろう!となった。
このプロセス、このスピード感なのかもしれないな、いなかビジネスは、
と改めて実感したことだった。
やろう!と言うなら、早くやればいいのに!
お金、持ってるでしょ、早く出してよ!やろうよ!
と何度思ったことか。
でも、僕が思うタイミングではなかった。まだ「気」が熟していなかったのだろう。
これは田舎・地域の中で、新しい組織が生まれていくプロセスを学んだ出来事だった。
こうして、ここにも新しい「仕事」が生まれたことになる。
これから、来年、再来年と、さらに仕事が増え、雇用が増えていくはずで
このことが、栗の再生であり、農の再生であり、地域の再生につながることなのだろう。
10年後、どうなっているか、また振り返ってみたいものだ。
▲農業法人「しまんと新一次産業株式会社」の会社ロゴ
僕が言う「仕事をつくる」ということは、
「起業」とか、「雇用創出」とか、会社立ち上げました!みたいな
軽いような、なんか、かっこいいような、そういう感じではない。
あっ、気づいたら、仕事になっちょるね~
あっ、人を雇えるようになったやん!とか
やっとできたね~ みたいな。
仕事をつくろうとするものの、難しくて、
なんとかがんばって続けていて、気づいたら「あっ、できちょる!」みたいな。
うまく伝えれんけれど、
たいそうなことのようで、意外とたいそうなことではない。
簡単にできそうにないけれど、意外と簡単なのかも。
と振り返って思うわけです。
田舎と都会のパイプ役の仕事の一つは、「仕事をつくる」ということ。
それは、人と人をつなぐ「つなぎ方」の一つ。
「つなぎ方」は多様にあって、そこにはアイディアがいっぱい詰まっていて
いろんな方法でつないでいく。
「つないでもらった」なんて、人々は思っていないけれど、
そんなきっかけをつくっていく。
つなぐために、なんでもやる、何でも屋。
これ、僕の仕事。