田舎の学校に求められる感度とは?②

2016/04/08

 

 こんにちは。ソシオデザイン(徳島県上勝町)のおおにしです。さて、第6回目です。今回のテーマは、前回の続きで、やっぱり「教育」です。前回振り返ってみると、

 

① 過疎地教育=地域の生き残り。

② それゆえに、過疎地教育は、「ふつうの内容」ではいけない。

③ よって、過疎地教育には、「新しい魅力ある教育が必要」だ。

④ 内容として、ものづくり教育や自律教育(サドベリーなどの複数の自律教育のミックスしたもの)が面白いのではないか。

 

という内容でした。

次のテーマは、この自律教育にかかわるお話です。

 

一神教的教育観を乗り越える

 

ボクが教育学者を目指していた20代半ばのころ、一つの「正しい教育理論」を積み上げていくことに没頭してました。まじめでしょ笑。

 

大西正泰 徳島 上勝 教育

 

 特にボクは、社会科教育が専門でしたので、戦後の初期社会科と呼ばれたものの研究(戦後の、目の前にある大小さまざまな社会問題に、直接問いをぶつけて、大人子供関係なく、同じ主権者として、当事者として関わる)や、現場でかなり受け入れられていた向山洋一先生の教育法則化運動、有田和正先生の「ネタ社会科」などの多くの有名実践を学びました。こうやって書くと、すごい勉強したかのように見えますね笑。

 

 当時ボクがもっとも影響を受け、かなり深いところまでやっていたのが、鳴門教育大学の小西正雄先生が提唱した「提案する社会科」というものでした。それまでの授業観(知識を身につけさす意味での入力型授業観)とは全く異なり、出力型授業観(今持っている知識と判断力をもとに、考え、何かしらの提案=自分の意見を述べる)というものでした。

 

 提案する社会科 徳島

 

 当時、この「提案する社会科」の研究仲間の先生で「みんなが批判している○○という授業のやり方でも子どもが立派に育つんだよなあ」というボヤキに似たコメントをちょくちょく聞くことがありました。確かに、いろいろな教育理論で実践している先生の子どもたちはそれぞれ「育ってる」わけです。教育法則化であろうが、ネタ社会科であろうか、なんという名前を関するものであってもいいのですが、教師が一生懸命考えて取り組んだ授業は、当然のことですが、教育方法を超えて、子どもたちが意欲的に育つわけです。当時は、それほど深く気に留めずにいたのですが、ずっと頭のなかにこびりついていた「事実」でした。

 大学院を修了し、その後、実際に教員になって、いろいろな実践に取り組んでみると、実感として感じるようになりました「あの事実」。そう、自分がいろいろな理論背景をもったものを試してみると、やっぱり子どもは伸びるわけです。成績も当然伸びます。

 

  ということは、それぞれの長所短所はあれども、一つのことにこだわりすぎず、それぞれの良さを知りぬいたうえで、子どもに合わせて「使いこなす」ほうが、「現場の真理」であったわけです。もう、ぶっちゃけていってしまえば、教育理論と教師の相性でしかないなと。まじめな先生は、知識を与えることで成果が見えやすいので、知識を系統的に学ばせることがわかりやすいし、行動派の教員であれば、実際に社会に出たり、大人と一緒に取り組むような実践を好むので、ますます、これは好き嫌いだなと笑。つまり、一つのことを「正しい」と思って、科学的にやっているようでも、所詮は「相性」でしかないんじゃないのと。

 こういうふうに当時を思い出すと、ようは科学という何か正しい真理が一つだけあるという「一神教」にとらわれすぎずないことも大事で、一つのものを極めていくことの重要性と、どっかでほかのもいいじゃんという矛盾した姿勢こそ「科学的かも」と思うのです。*こういうことを考えるように、ボクも大人になったわけです笑

 

 こんな考え(多神教的)からすると、前回紹介した、それこそモンテッソーリやサドベリー、シュタイナーなど様々な海外の教育論の本質は、自律=正しい=一神教的ともいえるわけです。それぞれが考える自律への最適ルートを考えて、教具を使うことで自律を誘引させやすくするモンテッソーリ、学びたいときになるまで、好きとかやりたいという感情を大事にするサドベリー。子どもとの間に化学反応を引き起こす誘発剤(教師と芸術などのコンテンツ)の良さをとことん活かすシュタイナー。どれもいいわけです。はやりのアクティブラーニングだっていいんです。けど、たぶんアクティブでなくて、一人で徹底して世界を作ることも大事だし。一つに絞り込むほうがあやういのかもしれません笑

 

 他力本願 徳島 上勝 教育

 

 が、これってすべて「自力本願」が根っこにあるように思うんです。個の力が高まることに、すごく信頼があるわけです。

  ボク自身は鎌倉仏教が出してくる「他力本願」(本来の意味は一神教的で仏にすべてゆだねちゃうという意味なんですが)でもいいじゃないと。いろんな力を借りていく、他力によってもいいじゃないと。自律しなくても、そんなに悪くもないんじゃないのと笑 すると、モンテッソーリもサドベリーもシュタイナーもまぜこぜの「空間」ができてもいいんじゃないのと笑 日本にだっていろんな手法があります。矛盾したっていいじゃないのと笑。

 

 日本だからこそできる、雑多に内包していくでたらめさという多様性のある「教育空間」があったらおもしろそうというのが、最近の興味です。それに、激安タブレットとMOOCの流れで、校舎や教師にこだわる必要性もずいぶんと薄れてきました。それよりも、いろいろな「ソトの空間」にある人やサービス、自然もありとあらゆるものを教育装置に組み替えられる仕組みを作ったりするほうがいいのかなと。

 

 子ども 徳島 上勝 教育

 

こういう教育の場を作れたならば、実におもしろいなと。上勝で育つ我が子たちの5年後10年後の姿を考えていきたいと、ちょっと、夢想しています^^

 

 

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