しまんとで大人の休み時間 ~辿りと運びのコーヒー・前編~
2017/11/14
- 執筆者 寺嶋紀人
- 所 属一般社団法人いなかパイプ
実は世の中には何でもない奇蹟で溢れかえっている。にも関わらず、私たちの頭の中はいつもアレコレ考えていてあまりに忙しくて、ただ目の前に有ることに追われ、ただ目の前に在るそれに気がついていない。
その何でもない奇蹟を「偶然」と片づけてしまえばそれまでの話。
先月の10月20日~23日に、一般社団法人いなかパイプ主催「しまんと大人の秋休み」というイベントを開催しました。目的はあらかじめ決めずに“集まった方々が主体”でやりたいことをやっていく! という企画。
廃校になった体育館で遊びたい人は遊べばよいし、暖炉の前でゴロゴロしたい人はゴロゴロすればよいし、四万十の自然に飛びこみたい人は飛びこめばよい。決まっているのは高知・四万十にある学校が拠点なのと、朝のミーティングに参加することだけ。
そうやって自分自身に正直に居つづけると、
「他の人や社会やルールに自分を合わせるのではなく、その時自分が何をしたいのか、またしたくないのか」
という感覚が自然に生まれ、自分の根幹にある大事な部分へと繋がっていきます。
そして自身の中にある気持ちの動きや変化に気がついたり、または人と人、人と自然の調和を感じることがあったりします。
でもそれは私自身があくまでも感じていることですから、
「参加者それぞれの中に大切な気づきが得られる3泊4日in四万十」
が、しまんと大人の休み企画です。というお伝えの仕方が適当なのでしょうか。
このイベントで私が得た気づきの一部を「皆さまに伝えたい!」と思いキーボードを叩きます。
また後日公開予定の、秋休み直前に開催された「いなかビジネスマネージャー合同研修会~リーダーとのきき方、はなし方~」のレポートにて、しまんと大人の秋休みで感じたことにも少し触れています。気になる方はそちらもぜひご覧くださいね。
ようこそ、台風の中のしまんとへ
開催前、秋休みスタッフ一同気になる天気を皆でチェック。直前の予報はなんと全日程、雨! しかも台風が迫っている~!?
3泊4日、悪天候の中、参加者の皆さんが楽しめるのかどうか…。それが何より心配でした。
しかし雨、風、迫り来る台風なんのその。目的を予め置かない遊び時間ですから、皆で今やれることを大いにやって大いに楽しむのでした。
※もちろんではありますが、増水した川に立ち入ったりなど危険がある中に無理に突っ込んでいくようなことはしません。天候や場所の状況をしっかり見ながら判断していきます。アウトドアに限りませんが楽しむ意味を履き違え、その場のノリ、これはその場の「快楽的感覚」といってもいいかもしれません。そのようなものだけで私たち人間に本来備わり感じ取っている危険感覚を無視して行ってしまうことが一番の危険だからです。
例えばですが「晴れの四万十の川原でピクニックをする」という企画をあらかじめ立てたとすると、その時点で「晴れ」という目的が生まれます。それが達成されなければ「あ~雨だから無理だね」となっていき、心の中に残念だなぁという想いが生まれます。
つまり、「目的=幸せ」となっていきます。
私たちは目的を達成することが幸せと思いがちですが、その感じ方でなくてもいつでもどこでも目の前に何てことはない幸せは溢れています。
それなのに目的を設け、それ自体に縛られてしまうことにより私たちの持っている素晴らしいあらゆる可能性に目を向けることの出来る自由な感性は固定され、動きが鈍くなっていき目的以外その他のものを見えなくしてしまう傾向があります。
目的に縛られてしまうことを考えてみる
変な例えですが、
「あ~お腹減った~!ご飯食べに行こう!よし、絶対今日はあの店のラーメンを食べることにしたぞ!ラーメンラーメン!」
と、ある夕食にそんなことを決めたとします。
「あれ、しかしお目当てのラーメン屋は臨時休業だった…。でもラーメンが絶対食べたい!ラーメンと今日は決めたのだ~!!」
だが、他のラーメン屋を練り歩いてもどの店も定休日であった。
そんな中、一軒だけ開いているラーメン屋を発見。しかしなんとお店の前は行列ができていた。
並んでまではどうかなぁ~と考えたが、「絶対ラーメン!」と決めていたので列に入る。ギュルギュルと鳴るお腹に「絶対ラーメンだからな」と言い聞かせながら1時間ほど待った。
あとちょっとでお店に入れるという時にバタバタと慌しい店員が出てきて、
「大変申し訳ございません(汗)今日はスープが切れてしまって…、ラーメン出せなくなってしまいました…。」
「!! うわ~マジか~! もうちょっと早く言ってくれ~!! …ガックリ。でもラーメンが食べたい。しょうがない、もうコンビニでカップ麺でも買って帰るか…。」
と、その日の夜は家でカップラーメンをすするのでありました。
ちょっと強引に何が何でもラーメンを食べたい人を例えにしましたが、やっぱり目的が行動を縛ってしまう傾向が出てきてしまうのではないかと考えます。
「目的=あの店のラーメンを食べる」が「目的=店でラーメンを食べる」に変わり、「目的=ラーメンを食べる」に最終的になっています。ラーメンを食べることがこの人にとっての幸せになり、食べられなかったらもしかしたら幸せを感じないのかもしれません。
目的なき幸せの形
お目当てのものを食べる。それはそれで一つの幸せの形であったりしますが、その道程には、
「私の食べたいものはホントにラーメンなのか? 温かいスープのようなものが実は食べたかっただけなのかも…。」
「今のこのタイミングで食べられなかったらラーメンじゃなくてもいいよ。もう外で食べなくていいから家でゆっくりしたいなぁ」
など、自分自身の体や心から様々なその時々の“今”を求める声が上がってくるのではないかと思うのです。
もし目的が「お腹減ったしご飯でも食べよう」だけだったら、いやそれすら決めずに縛られることがなかったとしたら。
いつもは全然気にならなかった道中にあるステキな雑貨屋さんが目に入ったり、いつの間にか少し紅葉している木々に気がついたり。一つを取るととても些細なものかもしれないけど、無限に広がる色とりどりの景色を捉え始める自分がいるはずです。
そんなことをしているうちに自分が食べたいご飯屋さんがいつの間にか目に留まるかもしれませんし、やっぱり家に帰りたい気持ちになるかもしれません。
私が感じた目的なき世界(目的に縛られない世界)は、
「この世は思っていたよりとてつもなく広く、豊かさに溢れていて、時間という概念も無く、私たちはいつも自由なのだ」
ということでした。
嵐は過ぎ去り、雲の合間に広がる星空と青空
雨からスタートし、台風も通っていった四万十の秋休み。
最後の夜は天の川も流れ星も見えるくらいの星空が広がり、翌日は嵐が空気をお掃除してくれたおかげで清々しく、そして気持ちの良い秋晴れでした。
もちろん参加者の方に「晴れがいいなぁ」という気持ちがなかったわけではありません。無理して「雨もいいよね」と思っているわけではないからです。やっぱり青空が広がる景色は気持ちを明るくするものですし、単純に晴れていれば四万十の自然を楽しむ範囲が広がるのもまた事実ではあります。
ただ、「今在るもので今を楽しむ」ということをしているうちに「晴れと雨」の境界線は曖昧になり、簡単に分けられるものではなくなり、あまり気になるものではなくなってきます。むしろ雨だからしか楽しめないことや台風の時にしか現れない四万十に出会える喜びが確かにありました。
それは私たちが子どもの頃に当たり前であった「遊ぶ」ということにおいて、晴れだろうが雨だろうが天気などは関係なくいつも何かで遊んで楽しんでいた在り方にも繋がっていくんじゃないかなと思います。
何よりそこにいる、そこに一緒に在る人達を大事に思うようになります。誰一人欠けても成りえなかった時間、空間だったのだと。
それはやっぱり「目的が幸せではない」から湧き起こる気持ちなんじゃないかな、と私は思うのでした。
と、ホントは秋休みで気づきを得た「辿りと運びの世界」ということをお伝えしたかったのですが、少し長くなってしまったので後編へ続くということで。