たつみかずき(31)北アルプス山麓拠点
- 執筆者 たつみかずき
- 所 属LODEC Japan合同会社
2017/05/10
東京より1ヶ月近く遅く桜が咲く、長野県北アルプス山麓地域よりこんにちは。そして、初めまして!!
「地域と人を繋ぐ」を生業とするLODEC Japan合同会社のたつみです。この度、ご縁をいただきいなかパイプさんでいなかマガジンの記事を執筆させていただくことになりました。
今回が「初めまして!!」ということで、自己紹介!!とかこつけてアレヤコレヤと売名行為をさせていただければ!!と、、
お前、だれ??
はじめに。このような公共の電波に載せて僭越ながら皆々様に正々堂々とご挨拶ができること、大変光栄に思います。(いなかパイプさんありがとう!)
私は「たつみかずき」と申します。長野県の左上、北アルプス山麓地域でスタイリッシュなド田舎ライフを謳歌する者でございます。出逢う人々から「何してる人ですか?」とか「どうやって生きているんですか?」なんてご質問をいただく日々。
このような公共の電波上に私自身の顔面や風貌を晒すことに大変な羞恥心が疼きます。そうそして、皆々様が感じておられるとおり私きっと、、
「胡散臭い!!」
なんでーーー!!!
自分自身では至って真面目で可愛げのあるシティボーイ的なド田舎人だと自負しておるのですが。どうやらそのように感じているのは、私自身のみであるということを最近は理解せざるを得ないのです。
さてさて。そんな胡散臭さ漂う私は、2009年3月当時22歳で、この写真に写る愛しきど田舎に移り棲みました。
最近よく耳にする「ライフスタイル」とか、「農的生活」なんてフレンチカントリー風な小洒落た価値観を持っていたわけではありません。はたまた、京都の鴨川でジャンベを叩きファイヤーダンスの夜会で空に両手を広げ「風よ〜自然よ〜」なんていうオーガニックな活動をしていた訳でもありません。(青春時代を京都で過ごす)
長野県と新潟県の県境である人口3000人のど田舎「小谷村-OTARI-」が、私の心のふるさとだったのです。
山村留学卒業生というレアキャラな、たつみです
長野県最西北小谷村。昭和33年に三村が合併し発足した、日本の原風景と北アルプスの雄大な山岳景観を有するこの村の人口は当時8000人を超える程の活気ある村でした。
私はこの村で小学4年生〜卒業までを山村留学制度をとおし暮らしていました。山村留学とは、小学生〜中学生が親元を離れてその名のとおり山村に留学する! というものです。
あまり知られていませんが、いまもなお日本全国で山村留学制度を継続している地域は100箇所近くあるそうです。(私が留学していた当時は300近くあったのだとか)
桜が散り始めた我が町を後にして、両親が運転する車は高速道路を北上します。
あたりが暗くなる頃、自分の身長を越すほどの雪の壁に覆われる集落に。知らない顔が走り回る寮に私は降ろされました。
「元気でな。」と、両親の乗る車の灯りは遠くなって行きました。
「育児放棄」
と親戚一同から笑顔の罵詈雑言を浴びせられていた両親に対して、「うんうん、そのとおりだと思うよ!!」と同調したことは言うまでもありません。
そんな感じで私の小谷村でのど田舎ライフはスタートしたのです。
山村留学は「センター方式」(寮生活)と「里親方式」(ホームステイ)が主で、私は週6センター、週1里親、という生活をしていました。
街場で育った小学生が親元を離れて見ず知らずの子供たちとど田舎で寮生活! なんて、いま考えたら物凄い経験であったと思います。
センターは昔分校として使われていた建物で、それはそれは「おんぼろ」という言葉が似合います。センターから学校までは約4キロ、徒歩1時間の道のりです。
長い長い道のりの真正面には、大きな大きな北アルプス白馬乗鞍岳が朝日を浴びて、夏頃まで残雪を残した頂を真っ赤に染めているのです。
今となっては「嗚呼、なんて美しい、、」とため息する光景を、当時は睨みつけながら必死に始業チャイムに間に合うように小さな身体で歩いたのでした。
1998年。小学5年生の冬、長野県では「長野冬季オリンピック」が開催されました。
私たちが暮らす小谷村の南隣の白馬村がオリンピックのジャンプ・滑降競技などの開催地となり、地域はオリンピック景気の活気に包まれました。スキー場にもたくさんのスキーヤーが訪れていて、リフト待ちをしていたことを覚えています。
母校を後に私は出生地である大阪に戻り、中学生となりました。山村留学で培った社交性とど根性精神は大阪でも通用するもので、学年で一番「友達が多い」キャラとなった私。
中学生らしく成長段階の青春時代な日々を謳歌している頃、「母校の小学校が統廃合して取り壊される。」ということを耳にしました。
「山村留学の所長の死去〜小学校の取り壊し〜山村留学休止」
中学〜高校の間に、立て続きにそのような出来事がありました。説明のできないモヤモヤ感。心のふるさとである小谷村が、とてもとても遠くなっていく。
「いつになるだろう?わかんないけど、小谷に帰ろう。」
そんな、自身でも予期せぬ言葉が頭の中をよぎりました。それから様々なことがありましたが、結果的に卒業から10年後の春の少し前。私は小谷村へと帰ることになったのです。
気づけば8年が経ちました
22歳のたつみ青年は、山村留学時代を過ごした地域の集落の、築150年余の立派な古民家で生活を始めました。
「小谷村をどうにかしてやろう!」
なんて、生意気でドヤ顔で無知な私は村の将来についてを熱く語っておりました。
あの時代の私自身にどこかで逢う機会があるとするなら、正座をさせて理路整然と且つ論理的にぐうの音も出ない程自身の勘違い極まりない醜態を晒している哀れな言動についてを涙枯れるまで説いてやりたいと思います。
まぁ端的に表現するなら「若かった」私は、そんな誰からも頼まれてもいない「地域再生」に向けて熱々の感情をむき出して小谷村の役場職員になりました。
空回りを続けた私ですが、村のじいちゃんや消防団の諸先輩の皆々様から言葉のげんこつを幾つも(稀に本物のげんこつ)いただき、少しばかり成長したのでした。
じいちゃんばあちゃんがすぐ近くで暮らしていたこともあり、「田舎」という存在を知らなかった私。小谷村と出逢う前は本気で、田舎はトトロや蚊取り線香のCMのように「バーチャルの中でしか存在しない」ものだと思っておりました。
愛しき我が家の縁側に座り蝉の声を浴びながら、
「この景色を見たい人って、この日本にたくさんいるんじゃないか?」
そんなことを考えるようになりました。
「この景色を独り占めして良い訳がない!!」
次第にこのように考えるようになり、ついには愛しき我が家を「ゲストハウス」として人々が訪れることのできる場所として開きました。
2011年3月に起こった震災の後の春。私は自身の家を『古民家ゲストハウス梢乃雪』として運営を開始しました。
『田舎の入口』となった我が家には、それからたくさんの人たちが訪れてくれるようになりました。
北アルプス山麓地域を拠点に『ゲストハウスカナメ』・『シェア&コミュニティmetone』を運営し、法人化することになりました。(この春から2軒目のシェアハウスを開始しました)
気づけば31歳となった私。正直言って、日々まぢリア充!! 懐深い北アルプスはいつでもそこにあって、私たちの日々を見守ってくれている。仲間も同志も、たくさんの人が
「やってやれ!!」
と力を貸してくれる。それでも期待と不安のハーフ&ハーフな日々。明日、生きていけるのか?!!どれだけ前のめりになっても突き進んでもどれだけ虚勢を張ったとしても、こわいものはこわいんだ。
この8年、少しばかりは前に進んでいるのだろうか? 志を突き通すことはできるんだろうか? そんな疑問がたまに自分自身を冷たく突き放すのです。
「目の前がどれだけ暗くても、振り返れば自分の後ろには道ができている。」
小学5年生の道徳の授業で、友人のお父さんが話してくれた言葉です。まぁいいか。とりあえず、いまのところ生きてるし!!笑
とっくに3000文字を超えてるぞ!!
規定の文字数をオーバーしながら、暑苦しい自己紹介(に、なってるの??)を長々と書かせていただきました!
最後までお付き合いいただいたあなたはツワモノです。予定では、月に一度田舎や地域にまつわる記事を書かせていだきますので、引き続きどうぞよろしく様でございます!
まだまだ発展途上な若輩者ではありますが、ほんの少しだけこの世界のどこかにいるであろう画面の向こうのあなたの心を揺らすことができたなら。こんなに嬉しいことはない。
いつか、世界のどこかで逢いましょう。それじゃあ、またなーーーーーー!!
いなかパイプの新参者
長野県北アルプス山麓地域の人
たつみかずき
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