盛岡を中心に多拠点生活スタート! はじまりは2011年。

2017/06/01

 こんにちは! 初めて投稿します。岩手移住計画の高橋と申します。岩手の移住促進をゆるっと(ホントかなりゆるく)サポートしているチームに居ます。「岩手移住計画」については代表の手塚さんの記事をご参考に。

 岩手移住計画のメンバーになってからはけっこう長いものなのですが、実は、この3月に東京で勤めていた会社を退職し、本格的に岩手県盛岡市を自分のメインフィールドとすることにしました。
 いままでは、ある意味、”エセ”メンバーだったのですが(関係する様々な人に「UIターン促進といっていながらお前はしてないじゃないか」と言われ…笑)、晴れて、「移住者」の仲間入りといったところです。気分的には!

 

市街地と岩手山の風景
写真は盛岡の明治橋から見る、市街地と岩手山の風景

 

 とはいうものの、東京生活は楽しくて捨てきれ…じゃなくて、「東京で岩手をPRする」というのも大事ですし、「将来的に岩手に移住したいけど、直近は無理」みたいな人も多いので、私が橋渡しになることができればという意味で、現在、岩手と東京の2拠点生活をしています。
 そんなこんななので、いまだに「Uターン詐欺だな!」と言われてしまいます(笑)

 以下のロゴの「岩手×東京会議」という活動を2015年から主宰していたりします。

 

岩手×東京会議

 

 ただ、半分まじめな話をすると、「定住促進」というのはある意味、限界があると思うんです。岩手に限らずですが、これを読む皆さんご存知のとおり、何年も前から、地方は人口減少に悩んできました。そして、明確な打開策なんて、たぶんだれも編み出せていないのが現状だと思います。
 そんな中、「住んでいる」の定義って何なんでしょうね。それを深く考えさせられたのは、私は2011年からでした。そう、東日本大震災です。

 

発災1か月後の被災地
東日本大震災、発災1か月後の被災地

 

 東日本全域、その中でも度重なるニュースになったように、特に岩手・宮城・福島で大きな被害が出て、いまだに多くの方々が避難生活を余儀なくされているほどの災害でした。
 私は東京で生活をしていましたし、実家は岩手県内陸部の盛岡市なので直接的な被災はまったくなかったのですが、母の出身が沿岸地域ということもあり、2011年4月から3年間、出向というかたちで、復興支援活動をしていました。
 私が主に活動していたのは、岩手県遠野市に本拠を構える「NPO法人遠野まごころネット」というところでした。

 

ボランティア朝礼
遠野まごころネットのボランティア朝礼の風景

 

 遠野市というのは、被災の大きかった沿岸の各市町村からだいたい1時間程度の距離にある場所で(岩手は広くてそれでもカバーできないエリアはありましたが)、この地を中継点として、多くの復興支援活動がなされていきました。応急復旧期には、公的・国際的・民営、様々な復興支援団体が事務所を構えていました。
 遠野まごころネットは、そうした様々な支援組織の情報交換の場所となり、また、個人ボランティアの方々が寝泊まりして毎日各被災地へ向かうための要所としても運営されていました。
 私が携わっていた期間(2011年から約3年)のうちに、延べ人数で10万人以上のボランティアの方々が訪れました。また、遠野まごころネットは現在でも「なりわい支援」としてステージを変えながら活動を続けています。

 震災が起きた2011年は、果てしなく続く「瓦礫の撤去」で、たくさんのボランティアを長期的に必要としていました。途方もない作業に、私が所属していた団体だけでも延べ10万人なのですから、他のところも含めると、公式/非公式あわせて、ほんとうに沢山の方々のご支援によって、自衛隊や行政・各民間企業の方々をサポートする形で、応急復旧が進められていったのだと思います。

 

仮設商店街
被災地でオープンした仮設商店街

 

 「ボランティア」という意味では、発災から1年以上が経った2012年の頃からがとても印象的でした。前年の応急復旧期の「瓦礫撤去や泥だし」というマンパワーを必要とされていた活動が次第に収束していきます。
 ボランティアニーズとしては、2011年ほどのマンパワーが必要となるわけではない「心のケア」「復興支援」「生活再建」といったテーマに移っていったわけですが、そのころになっても、瓦礫撤去や泥だしに従事していた方々から「自分に何かできないか?」という問い合わせがずっとずっと続いていました。
 そうした方々が「まだまだ自分たちは支援したい」ということだったのです。

 ニーズがないのに「支援の押し付け」はいかがなものかとしばしば問題にもなりましたが、とにかく「ニーズがないとしても、なんとか支援したい」というボランティアの方々の気持ちはずっと続いていたのです。
 その深層心理は、それまでの活動を通して、次第に被災地で友情のようなものが芽生えていき、どこか「岩手が第2の故郷になった」だとか「支援を通して、被災地域にできた人間的なご縁に繋がり続けたい」というところが、本音ベースだったと思います。
 今だからこそ、そういう文脈がオープンに語られるようになりました(当時は若干、タブー視もされていましたが)。「支援していたつもりが、逆に、かけがえのないものをいただいていた」ということです。

 

月命日に行っていた灯
遠野まごころネットで毎月11日の月命日に行っていた灯

 

 私自身も微力ながら関わったもうひとつの活動に、「東北食べる通信」というものがありますが、その編集長を務める高橋博之さんが、ご自身の著書で『ふるさと難民』という言葉を使っていますが、まさに「復興支援者だった方々が、この震災を通して、自分なりの新しいふるさとをつくっていった」ということでもありました。
 高橋博之さんは、この「支援し、支援される関係」の重要性に気づき、「食べる通信」が「災害の緊急時のみならず、平時…たとえば、食べ物の生産者と消費者が繋がり合う仕組み」になるという発想を得たとよくおっしゃっています。私も本当によく思うことです。
 現に、「食べる通信」の購読者の方々は、サービスを通して、実際に東北の生産者の方々とつながり、友情を育み、一緒にイベントを実施したり、販路開拓をしたりしています。
 この「東北食べる通信」では、「関係人口」というキーワードをつかっていまして、それを一番最初に目にしたのは、イケダハヤトさんが土佐山アカデミーを立ち上げた林さんの言葉を紹介した記事です。

 

 震災から6年が経ち、復興の状況も移り変わっていくなかで、あのときから生まれた「人のつながり」はずっと続いています。まさに、暮らしていなくても、たまに滞在したり、一緒の生活をしたり、離れていても繋がっている…それは「関係人口」と言っていいのではないでしょうか。
 そういう状況を目にしていて、移住促進の取り組みをしていながら何なのですが、「定住にこだわらなくていいんじゃないか?」「しかも月に数日ぐらいの滞在でもいいんじゃない?」という提案をよく行います。

 仮に、「ずっと昔から、その地域に定住している」という人だって、1年間の365日のなかで、数日は旅行に行くでしょうし、場合によっては、出張にも行くでしょう。人それぞれ、350日滞在かもしれませんし、300日かもしれませんし、100日かもしれない。それと一緒で、年に50日だとか、20日だとか、10日だとか、「縁を持って滞在する人」を増やしていくのが、地域の持続には大事なことのような気がしています。
 年に10日滞在する人が300人いることと、300日滞在している人が10人いることは、もしかしたら「経済効果」という観点では同じぐらいかもしれない(その人それぞれの属性があるので一概には言えませんが…そこらへんの話はまた別途、書ければと思います)。
 震災後に岩手県で起きていた「人のつながり」の変化を見ていて、とても考えさせられることでした。

 

小岩井の一本桜
冬の岩手山と小岩井の一本桜。この場所に来るといつも心が洗われます

 

 岩手県や盛岡市は本当に良いところです。そこに暮らす人たちは、「おしょす」な人たち(東北弁で、恥ずかしがり屋、みたいなニュアンスです)。もしかしたら会ったその日から仲良くなる、みたいなことはできないかもしれませんが、お互いの人となりがわかってくると、とっても親切にしてくださいます。
 年に何日でもいいから、この岩手県や盛岡市に、滞在して「日々の暮らしがハッピーになる人」が増えていければいいと思って活動し、その日々を「いなかパイプ」でも綴ってゆければと思います。

 

FacebookTwitterLine