消滅集落での神事
2013/01/15
限界集落・畑山に嫁いで3度目の冬を迎え
初めて、小松家のルーツである「椎山」へ出かけました
私たちが暮らすところからは見えない山の中に
ほんの40年前までは人が暮らしていた、
蔵も建っていたんだ
田畑もあって農作業に出かけたんだ
と楽しそうに語り合う小松家の面々を見ていると
行きたくて、行きたくて…。
物部にある堂平(どうだいら)から
小松しいえもんという先祖が
椎山へ移り住んだのが始まりだそう。
平家の御一統という伝承も皆無ではありません。
靖一さんの祖父母が椎山を降り、
今の寺内に居を構え、
曾祖父母を最後に椎山は消滅集落となりました。
それでも、12月末の椎山神事には
誰かしら小松家は出かけているのです。
集落とはいえ、
県道も無ければ、市道もありません。
往来が多かった昔と比べ、
人通りの絶えた山道は、
ところどころ土砂で埋まっています。
(写真;先を行くのが茂さん。中央に尚太郎を背負った靖一さん。椎山へはこの道しかない)
(写真;昔の人たちが渡した簡易な橋も朽ち始めている)
茂さんいわく、
「昔は平らで広かった」
という道も、たくさんの人が通らなくなって久しく
上から落ちてきた土砂で埋もって
足の踏み場がアップダウンのとっても激しい獣道に。
靖一さんと茂さんは
この辺で何を食べた、とか
何をして遊んだ、とか
昔話に花が咲く、咲く。
畑山~栃の木の往還道も途中にあり
「おじいが馬の背に炭を載せて行っていたのは、この道だ」とか。
山の暮らしを支えた道の痕跡を見るのは感慨深いものがありました。
けれど、
道沿いには、針葉樹が茂り、
手入れの行き届かなくなった谷間は
日がな一日、日光が届かないであろう場所も。
山の価値が今一度、見直されて欲しいと願うばかり…。
道なき道を歩くこと40分。
「そろそろ椎山だ」と言われても
まったく実感のわかない山の中…。
でも!でも!!でも!!!
右手上にある石垣が分かるでしょうか?
森を抜けると
突如、南が開けてお日さまの温もりを感じられる
椎山が、そこにありました。
靖一さんに案内されるままに集落を探検。
100年前に建てられたという民家の跡。
瓦!!
道なき道の中にある場所へ運ばれた建築資材を思うと
ほんの少し前の日本人の偉大さを感じて…。
朽ちて倒れているけれど、
小松家の跡も。
これが外界からは見られない集落の跡。
天空の城ラピュタを想起したのは私だけ・・・?
次は、小松家の脇にあるお宮へ。
畑山では、50年祀るまでは仏さまで
50年から先は神様になる
ということで
椎山の家の奥に小松家のお宮があります。
椎山にあった墓石は、
家の近くに移したものの
お宮は椎山に残してあるのです。
義母が作ってくれたお寿司や
芋餅(田芋の餅)や、ウルメを祀ります。
祀った後は4人で、おきゃく。
ワリバシを忘れたので、周りの枝を茂さんが削いで箸にし
ウルメを焼くのに、薪を集めて火を熾します。
義弟の健ちゃんが
「友だちにキャンプに誘われても行く気がしないのは
畑山の暮らしが日ごろからサバイバルだからだ」
と言ってたのが妙に納得できるおきゃくです(笑)
お宮の上の木々を見上げて靖一さんが、
「あの木から、こっちの木に向けて
モモンガが飛んだのを見た」とか…
1歳でこんな体験する現代っ子は
尚太郎ぐらいだよなぁ、と思いました(笑)
せっかくなので、近くを探検。
おじぃが作ったという炭窯の跡。
家の周りには炭窯もあれば竹やぶもあり、
柚子もあり、茶もあり…。
今の家よりも日当たりも良く
水源も近いのに廃村になったのは
アクセスの悪さだったのでしょうか…。
家よりまだ上に田んぼ跡があったというので
もう少し上を目指してみます。
この巨石の石切り場がどこだったのか
畑ではなく、田んぼにできるほどの水を
どこから引いていたのか
植わった木々はいつのものなのか…。
切り出した木々を運ぶワイヤーの跡もありました。
靖一さん、茂さんがそこらの事情を知ってるのも
隔世の感というか…。
海育ちの私には分からない山の暮らしが
畑山の山中には宝の山のように眠っています。
小屋があったという場所には
こんな跡が…
木々が茂ってなければ日当たりが良いんだろうなぁ。
人が何世代にも渡って暮らした集落が
この50年で消滅した事が
畑山に来る前の私には想像できないことでした。
限界集落の周りには
無数の集落があり、人が暮らして来ていたことを。
私が嫁に来た時、亡義父の姉はこう私に言いました。
「学校で、仕事に就く時、嫁に行く時、
畑山より一歩でも街中へ向けて出なさいと教わった。
なのに、なんであんたはこんな山の中へ嫁に来るんだ」
東京での暮らしも経験した私が
なぜ、故郷よりも寂れた畑山に来たのか理解できない、と。
畑山を出て、安芸市街で住むこと
安芸市街を出て高知市で住むこと
高知市を出て東京で住むこと
それが、当然のことであり
ステータスだと思ってる人が多いよう…。
周辺の集落が途絶えることは
一時的に中心の人口が増えることに繋がっても
時間の問題だと思うのは私だけでしょうか。
周辺部が栄えて初めて、
中心部も栄えるものではないでしょうか。
むらがあるから、まちがある
まちがあるから、むらがある
お互い様だと私は思うのです。
何も一極集中しなくて良いじゃないの?
先祖が暮らしてきたところで
これからも暮らせる道があるんじゃないの?
10年前、畑山に初めて来た時
そんなことを靖一さんに伝え
故郷での村おこしへの夢を反対されました…。
田舎で、限界集落で、
暮らすことの難しさ
産業を興すことの大変さを痛感しているから
出た言葉だと思います。
社会人になって、それは十分痛感できた言葉だったけれど
やっぱり私が暮らしたい場所、やりたいことは
街中にはありませんでした。
畑山で、靖一さんと同じ夢を見て
畑山で暮らしていきたいと思って
飛び込んできました。
生活することの難しさ
会社を経営することの大変さは
畑山で暮らす中で、とてもシビアに痛感しているけれど
靖一さんも私も、やっぱり畑山がエイところだと思うので
私たちは畑山で楽しい夢を見て、
夢を実現していきたいのです。
毎日は慌ただしく、大変なことも山ほどあるけれど
それが苦痛であったり、放り出したいと思うことはありません。
課題解決のため、楽しいことをやるため
人数が少ないから進められることは少しだけだけど
一歩ずつ前を向いて、畑山での暮らしを楽しんでいきたいと思っています。
畑山を消滅集落にしないためにも
ことしも頑張ります☆