古民家を受け継ぐ(1)
2013/02/04
和三盆と藍玉。
私がUターンをした徳島県上板町には、和三盆と藍玉という2つの伝統産業があって、今も変わらず昔ながらの味や色が受け継がれている。こうした家々は旧家であり、茅葺き屋根や丸太梁を表した見事な普請を、現代まで維持してきている。
今回は和三盆の家の話。
上板町は南に吉野川、北に讃岐山脈が位置する環境の恵まれた地にある。北に行くほどだんだんと標高が上がり、平野を見渡す感じとなる。ちょうど見晴しがよくなってきた辺りに、岡田製糖という和三盆で商いをしている家がある。徳島駅前に出店していたり、雑誌等でも紹介されていたりするので存じている方もいると思う。さとうきびを扱ぎ、釡で煮詰め、冷まし、職人の手を通して、和三盆になっていく過程を見学させてもくれる。
この岡田製糖の母屋が、北の農道を挟んで現在も残っている。
岡田製糖には年間を通じて多くの観光客が訪れているが、もともとは別の母屋の方で製糖を営んできたことを知るのは地元の者だけだろう。ある時代に母屋の方は製糖業を辞め、新宅に全てを譲り渡した。母屋と新宅と屋敷は全く同じ平面をしている。
母屋の屋敷自体とても立派で、今は鉄板をかぶせているが茅葺きの寄棟、その内側は白川郷の民家と同じく合掌造、登り母屋を縄で縛っている。屋根の勾配は約8寸勾配と急な勾配になっている。普通の家は瓦屋根で4寸勾配、最近流行りの片流れ屋根だと2寸勾配より緩い屋根もあり、8寸勾配で設計をするということはまずない。8寸勾配ということは、1m先で80cm上がることになるのだから、棟先から棟芯まで3間(約6m)あるとすると、4.8mも上がることとなる。屋根裏に大人二人が肩車しても手が棟木に届かない高さもの空気層(=断熱層)があるのだから、それは涼しく快適な生活が送れてきたのだろう。
柱は今ではもう日本にほとんど植生していない地ツガで、4寸(約12cm)ある。足元には土台はなく、基礎石の上に直接に柱が載っている、いわゆる伝統構法の建築物となる。間違いやすいのだが、基礎と土台というのは全く違うもので、今の家ならばコンクリートで立ち上がっている部分が基礎で、土台というのはその上に水平に設置する木材のこと。土台の上に柱が載っていると構造計算が出来るのだが、基礎の上に直接載っていると現代の科学ではまだ力の流れが解析でききれていない。
柱は、その柱頭と柱脚では柱一本分ほどもずれてしまっている。今の家と違って、基礎の上に柱は載っているだけで固定をしていないのだから、長い年月の中で少しずつずれてしまう。特に南東の柱のずれは大きい。それは、昔の家は南東の日差しの良い場所に床の間をとるため、柱間は全て建具となり壁がないのに対して、北西は調理場や納戸となり、防火や防犯の目的から壁が多くなってしまうからだ。壁があるほど建物は強くなるから、地震等で揺れた時に弱い部分ほどずれやすいのだ。補強をしようにも、眼下に広がる庭園の眺めを遮るわけにもいかず、建築家の頭を悩ます。
梁は直径40cmから60cmほどの松の丸太が使われていて、最大で4.5間(約8m)も飛ばすなんていう無茶なこともしている。普通、梁をいくらまで飛ばせるかは、梁の背(高さ)で決まる。経験的には、角材の場合には、梁を飛ばすスパンの1/12以上の梁背が必要となる。1間(1.8m)だと15cm以上、4.5間(8m)だと約68cmは必要となる。丸太は角材よりも強いので、60cm位でも持つのだが、さすがに4.5間も飛んでいると気色悪く感じるものである。
こうした古民家を家人は代々に渡り、愛してやまなかったのであろう。現在の家人の誰に聞いても、家を愛し、誇りに思っていることが伝わってくる。ヨーロッパと比べた時に日本の家の寿命が端的に短いことがしばしば指摘されるが、それは構造が石と木だからという訳ではない。後世の人間が、この家を残したい、手を入れたいと思わせるような、すばらしい意匠がそこにあるかどうかである。
この家では、ご子息が結婚を期に、将来に古民家で暮らしたいという希望をされた。この家が次の100年長生きができるチャンスが巡ってきた。これからは、専門家の仕事である。依頼された台所辺りの改修設計に合せて、耐震補強や省エネ性能を向上させることを提案した。ただし、伝統構法の住宅に相応しい昔ながらの技術を使って―
これから数回に分けて、古民家の伝統的な改修方法についてお付き合いを頂ければと思います。