地球の反対側に、「もうひとつの高知」がある?!
2013/12/09
- 執筆者 三瀬崇裕
- 所 属一般社団法人いなかパイプ
皆さんは、日本から中南米への移住があった歴史を、ご存知でしょうか?
いなかパイプの拠点がある高知県でも、ブラジルを筆頭にして6千人以上が中南米に移り住んだ歴史があります。中でも、パラグアイ共和国は移住者に占める高知県出身者が多く、戦後に移り住んだ日系人約7千人のうち、高知県人は最多の1千人強。現在でも、高知県人会の会員数900名と、海外に存る高知県人会の中でもダントツトップです。(2位はアメリカ合衆国ロサンゼルス500名)
私は、2年前にこの国を訪れました。高知に暮らす今、パラグアイの日系人移住区に「もうひとつの高知」を訪れた2年前の記憶を時々思い返しています。
(お世話になった農家の方と)
さて、皆さんはパラグアイと聞いて、何を思い浮かべますか?サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会の決勝トーナメントで、PKで日本に勝利した国と言えば、膝を打つ人もいるかもしれませんが、馴染みのある方は少ないでしょう。この国は、南米大陸の中央部、ブラジルとアルゼンチンに囲まれた内陸国で、日本よりも広い国土に、6百万人が暮らす穏やかな国です。
南米に渡った日本人の多くは農業移民。日本人の野菜作りの技術は世界各地で高く評価されていますが、特にパラグアイでは、日本人が持ち込み普及させた野菜が食文化を豊かにしたと言われています。改良を続ける姿は、日本人の良さと言えるでしょう。
パラグアイに初めての日本人移住者が入植してから約75年経つ現在では、世界第3位の大豆輸出国である同国の大豆生産の約7%・小麦生産の30%を、たった7千人しかいない日系人が担うほど、日系人の存在感があります。また、1989年には、8万5千人の日本人移民を受入可能とする協定が無期限に延長改定されており、同国が日系人の貢献を高く評価している様子がうかがえます。
41km地点でバスを途中下車
私が訪れたのは、移住地の中でも歴史が浅い、イグアス移住地。その名の通り、世界3大瀑布・イグアスの滝からほど近いところにあります。高い緊張を強いられる南米滞在中においては、日本に里帰りしたように落ち着ける場所として、知る人ぞ知る場所です。
移住地に行きたい方は、イグアスの滝近くの町から、首都アスンシオンに繋がる一本道を通るバスに乗り、運転手さんに「41km地点で降ろして欲しい」と伝えなければなりません。
降ろされる場所は、こんな風景です。赤土の大地を真っ直ぐに伸びる一本の道を、高速で車が飛び交います。
帰る時は…丘の向こうから走ってくるバスをヒッチハイク!高速で走り抜けるバスが、止まってくれる幸運を願い、全身でアピールして下さい。1時間もあれば、そのうち止まってくれるバスもあります(笑)
赤土の大地に360度広がる大豆畑
イグアス移住地は、総面積約878 km²の広大な平原に、日系人220世帯・750名程が暮らしています。ちなみに、東京都23区の総面積が621km²ですから、いかに広大か、ご想像頂けるでしょうか。農業が主な産業で、中には1,500ha程の農地を所有する方もいます。
この地で日本人が始めた不耕起栽培による大豆の大規模機械化農業は、やがてパラグアイ全土に広がり、同国を世界3位の大豆輸出国にしました。不耕起栽培は、収穫後に畑を耕さずに種を蒔く農法で、労力を削減でき、降雨による土壌流出の被害を防ぐことが出来ることから、世界的に注目されています。原生林の巨木が生い茂るかつてのアマゾンの面影は、殆どありません。
どこまでも、どこまでも、どこまでも大豆畑!
高知県出身者、シェアNo,1の村
イグアス移住地でも、高知出身の世帯が最も多く、高知訛りが共通語になっているとか、いないとか。一説には、パラグアイで野球が盛んであるのは、移住者に高知出身者が多かったからだ、とも言われています。移住者がまず作ったのは、学校、農協、そして野球場。野球場は、プロ野球選手を輩出します。かつてヤクルトスワローズで活躍した岡島洋一投手です。同投手は14歳までこの地で育ち、移住区対抗野球では、誰も打てない剛速球を投げていたという、この地のヒーローです。
日系人移住地の課題
移住地では、移住二世・三世に世代が移るにつれて、世代間の言葉と価値観の違いが問題になっています。イグアス移住地でも、1万人程のパラグアイ人と共存しており、日常では公用語であるスペイン語と現地語を使うため、日本語を使う局面は限らています。そこで、イグアス日本人会では、学校で通常のスペイン語の授業後、7人の日本語教師を常駐させて、小中高生に放課後日本語学習を行っています。こうした取り組みにより、パラグアイの日系人は、日本的な文化を理解し、日本語能力が高く、スペイン語は勿論、ポルトガル語も理解できるということで、出稼ぎ労働者を求める日本の企業から引くてあまただとか。しかし、日本へ行く人が増えていることは、若手人材の流出を意味し、日本のいなかと同じ課題を抱えています。
(週に2回、2時間だけオープンする、南米でも有数の本格ラーメン屋。1杯17,000グアラニーは、約350円位)
移住の歴史に想いを馳せる資料館
移住地には資料館があり、1961年に移住が始まり、原生林を切り開き、山焼きにして耕地を開拓。自給自足の生活を続けながら、土地にあった換金作物を試行錯誤してきた様子が残されていました。
写真は、別の日本人居住区(ボリビア:オキナワ村)のものですが、原生林のイメージが伝わります。
こちらも、別の日本人居住区の写真、同じく、チーターなどの危険生物が生息していたそうです。
滞在中、特に同郷の四国南西部出身の方々には、居酒屋やレストランで食事をご馳走して頂いたり、村や大豆畑を案内して頂いたりと、お世話になりました。よそ者として、苦難に耐えながら、病院、道路などのインフラを提供する等、パラグアイ社会との共生に資力してきたこと。同国の発展に寄与してきたこと。
また、東日本大震災後に中南米の日系社会が熱い想いで支援をしていたかを見聞きする毎に、胸を熱くしました。震災後には、パラグアイ日本人移民農家を中心に「100万丁豆腐プロジェクト」として、原料の大豆、製造加工費を支援しています。
私は、日本国内で南米移住の存在が伝えられていないこと、知られていないことを残念に思います。地球の反対側で体当たりで生き抜いてきた日本人の姿から、いま学ぶものが多いのではないでしょうか。
みなさんも、ぜひ一度、みなさんの足元にある、移民の歴史を紐解いてみてはいかがでしょう。
(高知県人の中南米移住については、高知新聞社発行の「南へ」に詳しい)