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脱サラ農家と商品開発&販売促進&観光開発プロジェクト
明郷園
澤村和弘さん
佐川町斗賀野のウスギ地区、急な傾斜の続く細い山道を上へ上へと進む。10分くらい行くと、景色がさっと開けた。下を見ると佐川町を一望でき、はるか向こうには雪の積もる石鎚山、その背景には初冬の青い空。ここから見る景色はまさに壮大で、どこか別の国に来たかのよう。元梨園だったこの場所でブルーベリーと栗を栽培しながら、かつて佐川で栽培していた「はつもみじ」の体験茶園を開こうとしている元・農協職員の澤村さん夫妻にお話を伺いました。
働き始めたころ?
―農協で働き始めたのはいつですか?
澤村和弘さん:
大阪の短大を卒業したけど、就職する気がなく、京都のコンピュータの専門学校に入ったがやけど、1年間学校にも行かずバイト三昧で、全く勉強せんかった。就職するのが怖かったんよね。さすがに、これではいかんということで高知に帰ってきて、春に役場の採用試験を受けたけど、ひとつも勉強してないし、そら落ちるわね。3ヶ月ぶらぶらしていたところ、農協で中途の採用試験があり、親父が佐川町の合併前に尾川地区の農協にいた縁もあって、21歳で農協に入ったのが始まりです。
最初に入ったのが農産物を販売する営業経済課で、苺の担当でした。当時、斗賀野地区は苺が有名で、佐川農協もやろうということで、苺をやり始めて3年目の頃だったね。7年間販売を担当して、農家との付き合いもできました。
それから畑の違う金融の部署に異動になって、20年間、同じ部署でした。その時は55歳が定年で、55歳で辞めるつもりで人生設計を立て、辞めて何をするのかは固まってなかったけど、農業という選択肢は20代、30代の頃にはなかったね。旅館業、民宿みたいなことをやりたくて、本川村にペンションを建てようかとも思いよったね。
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―自分で農業をやろうと思うきっかけは?
平成19年の秋に、売りに出ていたこの土地を買って栗を作り始め、50歳の時に営業経済課に戻って、営業事業の課長になったこともあり、農業を本格的に意識し始めたのはその頃やね。もしここでの経験がなかったら多分やってなかったと思う。それくらい、ちょうどのタイミングやった。それから仕事をしながら、栗の世話もしながら5年間やりました。
その課に入って2年目の平成20年に、二番茶を何とかせないかんという話が持ち上がったときに、自分の出身の尾川地区で、小さい頃紅茶を作りよって、紅茶工場があったのを思い出してね。昭和30年代に植えたらしい紅茶の木があるということで、それを見に行ったら茶園があって、それを使って紅茶を作ってみようということになって、平成21年に茶業試験場で試作を作ってみることができました。
持ち主が、「荒らしたらいかん」という律儀な人で、茶園としての管理はしていたけど、収穫はせず、商売もしてなかった。園主は元農協職員で、親父の後輩でもあって、尾川の農協時代からずっと知っちょった人やってね。そこで収穫させてくれと頼んで、「お前がやるやったらかまん、自由にやれ」と言うてくれて、借りることになった。
そもそも日本紅茶は静岡で作られたのが始めで、明治、昭和初期、昭和30年代と3回製造ブームがあったらしい。高知県で紅茶を作り始めたのは仁淀川で、最後までやったのが佐川の尾川地区。当時、輸入紅茶は関税がかかっていて高かったので、国産を作って、いいのができたら海外にも輸出しよったという。昭和47年に関税が撤廃になってから、国の指導で紅茶の木は全部緑茶になって、尾川地区では「はつもみじ」という品種を育てよったけど、枝ぶりがいいので庭木用として売られ、今ではほとんど残っておらず、この茶園は、唯一たまたま残った「はつもみじ」の茶園ということになるね。
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第2の人生のスタートとして
― これから何が始まりますか?
退職して、本当は色んな事業はせず、妻と二人で生活できるくらいのことをしようと思っていました。けんど、県主催の農業創造セミナーで6次産業化のことを勉強しよると「紅茶をやれ!やれ!」と言われ、「それやったら“はつもみじ”をもう一回復活しよう!それが私の使命だ。」と思うようになって、農協で育ててもらったということもあるので、今は恩返しの気持ちでやっています。自分だけ儲けても嬉しくないしね。
? 平成22・23年には、農協がヤブキタ種を使って紅茶を作りました。“ヤブキタ”は緑茶の品種で一番いいといわれゆうがよ。緑茶は発酵しないように品種改良されてきたものなので、それで作っても本格紅茶にはならんわね。紅茶の専用種にはならんけど、渋みが少なく甘いことが特徴で、色はちょっと黒い。その“ヤブキタ”をメインに、“はつもみじ”と“ベニフウキ”をブレンドして、ブレンド紅茶を作ることになりました。そして、試行錯誤を重ね、やっと商品になったのが平成25年の10月で、今は観光協会に置いてもらっています。
これからは、いろいろと改良しながら、イベントなどでお茶の販売促進をやったり、ホームページをつくってPRしていくことに力を入れていきたいね。
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― 購入したこの土地では、これから何をやっていきたいですか?
? この土地の方は、昔は梨畑をしよったらしいけど、園主が亡くなって2年間ほったらかしの耕作放棄地で、とにかくジャングルやったね。大変なところでどうしようと思ったけど、安かったので即決断、買ってから嫁に言うた。
天気のいい日に一緒に二人で来て、ジャングルを駆けいって、全部の段をメジャーで測った。それでやっと全容がつかめた。そんなことをしたのが、ちょうど秋で、本当に素晴らしい景色やった。
それから1.5ヘクタールに植わっている梨の大木を全部切って、枝を全部のけて、ユンボでひいてもろうたり、知り合いで“夢甘栗”を一生懸命やりゆう人がおって、栗に夢を感じて、その年の正月に栗を165本と南高梅を25本植えたりして。その後、栗が太らんので30本切って、ブルーベリーに変えたけどね。
?澤村さちさん: 1年目は梨の枝が畑の淵にごろごろしてたのを、束ねて積んで、2年くらい置いて腐らせたりね。けど枝を切って堆肥にするためにチッパーを買いました。今までは燃やしよったけど、環境によくないし、土に戻すのが一番いいと思って。色んなことしてきたけど、人力には限度があるし、何せ機械がいるということで、今までで一番高い誕生日プレゼントに、ユンボを買いました。
?和弘さん:ユンボを買ったときは、何でもできると思ってそりゃ嬉しかったで。1台で50人分の仕事するき。ここは、見てもろたらわかるけど石だらけの土地。景気のいい頃は庭石としてとっていきよったらしい。未だにロープが巻いたままの石があるくらいよ。けんど、果樹もお茶も、石があってもいける。果樹は、水はいるけど水はけがようないといかん。雨が降ったら水がごんごん湧いてくるき、ここは適しちょったがやろうね。
さちさん:平成22年に作った夏のお茶は、手摘みして紅茶を作る体験ツアーを企画しました。役場の人や観光協会の人、15人くらいに来てもらいました。7月の終りに二番茶がとれるので、子どもたちも夏休みの自由研究に来てくれました。小学1年生の子は、ブルーベリーの収穫に来てくれたがやけど、山の竹を切ってきて、竹トンボを作ったりつき鉄砲を作ったりして、竹遊びをしたりね。1日分の絵日記が3ページも書けた、とお礼の手紙をくれて嬉しかった。こんな感じで、農業体験も含めて、人を呼んだら面白いだろうなと思っています。
?和弘さん:ここ薄木山は眺めがいいので、殿様の気分になれる。最初の農園構想は、ここが一つの独立した共和国で、日本円が使えないようにしようと思っていました。独自通貨があって、円を交換するには仕事の対価で100ウスギを支払うという仕組み。「銭金で買えるものはありません、王国に貢献してくれた人は、王国の恵みを手にすることができます」と。この考えをセミナーで発表したら「???わからん」と言われたけんど、今でもそういう気持ちでやりゆう。
?さちさん:ここは牧野富太郎が愛した植物の宝庫でもあって、紫背スミレやセンブリ、サカワサイシンが群生してる。鳥もよく来るしね。山野草が好きな人はいっぱいいるけど、自然の中に生きている花がきれいと思える人に来てもらいたい。いなかが好きな人は居心地がいいと思う。
夏は屋根の下におったら涼しいし、冬には囲炉裏もある。電線が来てないので、電気はバッテリ逐電システムを使った太陽光発電でまかなってる。冷蔵庫も、お茶の乾燥機も使える。そういうシステム作りも教えられる。人工的に外から供給されているものがないので、災害があった時に、ここは生活できる。
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?研修生に向けて?
― インターンシップ研修生はどんな経験ができますか?
?さちさん:私は高知・北部の大豊町の出身なので、若い時は田舎がうっとおしかった。町は人が関知しないのでいいなと思ったけど、自分たちが子どもを育て終えて、二人だけになると、そういうところの本当の良さが分かってきました。
地域を大事にせないかんなと。うちにあるものは作って、ないものは交換。これからは物々交換の世の中だと思う。お金をいくら持ってても、作った人に権利がある。そういう時代に入ってくるんじゃないのかなと。作ってる人が一番偉いという、そういう農業にしないといけない。
私はいつもここに来ると心が洗われる感じがする。家から15分くらいかかるけど、着いたらリセットできて、農業の姿勢になる。トンネルを抜けたみたいに出てくるのが一番いい。そこはすごく好きなところ。
研修生には、耕作放棄地を手入れして変えようとしている現場、その事例を知って自分で学んでほしい。発展中の過程を見ることができると思います。