どっちだ?特別な日と、平凡な日常。
2014/07/04
最近お陰様で、テレビや新聞、雑誌などのメディアで、御槇や福田百貨店のことを取材して頂く機会が多くなった。これは、情報の発信が大きな課題である田舎においては、とてもありがたいことだ。これまで色々と仲間内でボランティア的に動いてきたことや、地元のおばちゃんたちが陰日向に奮闘してきたことが、ようやく日の目を見るようになったという感じだ。
やはりある程度、日の目を見ない所の努力や下地の部分の活動があって、氷山の大きな塊がちょこっと水面から頭を出すように、目に見えるようになった部分が、多くの人の目に触れるようになったという感じだ。
この春オープンした、みまきガーデンのオープニングセレモニーの様子。各種メディアが勢ぞろい。
田舎にUターンやIターンをして、自分が定住する地域を活気づけたいと考えて活動する人は多いと思う。けれど、元々そういう仕事や活動をしていた人ならいざ知らず、未経験の人にとっては、やはり下積み的な部分に時間がかかることは、ある程度否めないことだと思う。田舎暮らしに順応する時期と、そういう活動をする時期が重なると、なおさら大変さは増すだろう。
他人事のように書いているけれど、はっきり言えば僕の実体験である。空回りしながら、挫折しながら、日の目を見ない活動を重ねながら、自分自身と地域が成長する下積みの時期が必要なのだと思う。
御槇を訪れて貰うための案を練るワークショップの様子。ただのおっちゃんおばちゃんが、慣れないワークショップを何回もこなした。
ところで、一般的にはテレビや新聞で紹介されることは、普通の生活をしていると経験することのない“特別”なことだ。だから、最初の頃は取材されるときは結構緊張していたのだけれど、一昨年頃から継続的にいろんなメディアの取材を受けるようになって、最近ではだいぶ慣れて余裕が出てきた。「やったー!テレビで取り上げて貰える!」という浮足立った段階から少し抜け出して、一度冷静になって、「マスメディアと接してみて気づいたこと」を整理してみようと思い、今回の記事を書いてみた。
NHKで生放送された際の様子。生放送の緊張感は凄かった~。
ちなみに、福田百貨店に来てくれるお客さんは年配の方が多かったりするので、パソコンやスマホに縁遠い人も多い。若者のメディア離れが進んでいると言われる昨今、ブログやfacebookといったSNSの口コミ力もとても影響力があるのだけれど、年配の方に対してはテレビや新聞といった従来型のマスメディアの影響力が、依然大きいと感じる。特に田舎は若者より年配の方が多いので、田舎での情報発信においてマスメディアの影響力はまだまだ大きいと思う。
愛媛新聞に掲載された福田百貨店の記事。この記事のおかげでその後のテレビの取材や色々な展開につながった。
では本題に入ろうと思う。すごく当たり前の話をするのだけれど、テレビや新聞、雑誌などで取り上げられている事柄というのは、何らかの“話題性”を持った事柄が取り上げられる。
人と違うことをやっていると目立つ。
“これまでにない新しいこと”をやっていると目立つ。
“常識やセオリーと違うこと”をやっていると目立つ。
“だれもが興味を魅かれる話題性のあること”は目立つ。
“人の好奇心を満たす情報”は目立つ。
“誰もが気付かなかった発見”は目立つ。
そして、“マスメディアで取り扱われること”で、より一層目立つ。
そうした「ちょっと目立つこと」から「かなり目立つこと」まで、沢山の「目立つこと」が集積して一堂に発表されているのが、新聞であり、ニュースであり、雑誌であり、マスメディアなのだと思う。当り前なのだけど、“ごく平凡で何事もなく平穏に過ぎて行く日常の出来事”は、記事にもニュースにもならない。「なんと!」や「まさか!」や「へー!」や「なるほど!」のない情報など、表立って発信されないのである。だから新聞やニュースを見ていると、毎日毎日「凄惨な事件」が頻発し、「感動的な出来事」が巻き起こり、「これまでにない」ものが発売され、「驚きの事実が」知れ渡り、「新しい取り組み」が紹介されているのである。
だがしかし、日々の生活はそんなに“目立つ”出来事ばかりが四六時中起きているわけではない。いつも通りの日常がいつも通り過ぎて行くことの方が、圧倒的に多いはずだ。(少なくとも比較的平和な日本では。)
いつも通りの日常が、日々穏やかに過ぎて行く。
つまり、「何事もない平穏で普通な出来事」が日々のほとんどを占める中、「普通ではない注目すべき出来事」がごく稀に起こっているのである。色んな地域において発生するごく稀な出来事が集積して、日々のマスメディアを賑わせているのだ。それを踏まえて何が言いたいかというと、日々は概ね“平凡”に“平穏”に過ぎて行き、特別な出来事は“ごく一部”なのだから、『平凡で平穏な暮らし』の方が実は大事なんじゃないかということだ。
どうしても田舎で地域おこしなどを考えると、『特別なこと』をしなくてはいけないと考えてしまうのだけれど、“田舎”で“暮らし”ながら“地域おこし”をするのであれば、『特別ではないこと(=平穏な日々の暮らし)』を充実させることこそが、大事なのだと思う。
「一過性のイベント」や「奇をてらったアイデア」は人目を引き、マスメディアにも注目されるし、“達成感”や“やったつもり”になるけれど、実際は1日や2日のイベントにどれだけ他所から人が来たとしても、地域の生活を維持することや、担い手を増やすことは難しいだろう。むしろ、特別ではない『日々の生活』が充実して生きられる生き方や、日々を安泰に暮らせる地域の将来を形作ることがとても大事だと思う。
御槇の平凡で平穏な日常。ここに田舎の良さがある。
…と、ここまで偉そうに言っておきながら何なのだけど、正直、僕がこれまで御槇でやってきた活動というのは、後者だと思う。つまり『特別なこと』の方だ。
振り返ってみると、イベントであったり目立つことの方をやってきた。そんなわけで注目を浴びて、マスメディアにも取り上げて頂いているのだと思う。それはそれで一定の効果を上げているのだけれど、“目立つこと”である程度成果が出てきたところで、“目立たないこと”に意識が向いてくるようになってきた。これは、僕の個人的な性格の部分もあるのだけれど、元々 “人とは違うこと”をする方が好きだったし、“普通とは違うこと”を考えるのが好きだった。だから何かをするときには、“人と違う”手段や方法を考えるクセが身に付いている。ただ勘違いしてはいけないなと思っているのは、僕は“人と違うことをする”という能力に比較的長けていて、“その分野において力を発揮できるタイプの人間というだけだ”ということだ。
これが冒頭のマスメディアの話につながるのだけれど、マスメディアはその性質上「目立つものを取り上げる」という存在であり、僕が力を発揮できる場所はちょうどその「目立つ場所」であるということだ。それ以上でもそれ以下でもない。マスメディアで取り上げられているからスゴイというのではなく、僕の持つ能力で向いている地域おこしの手法は、「特別なこと」や「目立つこと」の分野になってしまうということだ。
なんで今回わざわざこんなことを書いたかというと、きっとこれから田舎で地域おこしに取り組もうという人の中には、僕と同じようなタイプの人たちも沢山いると思う。マスメディアに取り上げられたり、人々から注目を集めたりして、知っている人からも知らない人からも「スゴいね!」と言われて、天狗になったり有頂天になったりしないように、警鐘と自戒の念を込めて書いてみたという次第だ。
僕が人目を引くような特別な事や目立つことをしながら生きている間に、御槇の人たちは平穏な日々の日常を生きていて、田んぼを耕すおじさんたちや、井戸端会議をするおばちゃんたちや、伝統芸能を継承してくれている若者たちや、連れだってお散歩をするおばあちゃんたちがいて、御槇という集落が、魅力的な空気感を持った田舎となっているのだと思う。その日々の平凡な生活が営まれるという土台があってこそ、僕がしている特別な活動が意味を持ってくるのだ。もし仮に集落のみんなが特別な目立つことばかりをしているような状況であれば、ガチャついて田舎らしい魅力などすっかり失われている事だろう。
むしろ日々の平凡な暮らしや、これから将来にわたって平穏に過ごせる地域であり続けることこそ、いなか暮らしにおいては大切なのではないかと思う。それはひょっとすると僕の適正からすると得意分野ではないのかもしれない。けれど、今はまだ特別なこととして取り組んでいる状態の福田百貨店もいずれ御槇の日々の当たり前になり、我が家の暮らしにとっても平穏な日々の一部となるような、そんな無理のないお店に出来たら良いなと思っている。
福田百貨店で繰り広げられる日常の風景。我が子の遊び場になっている。
新聞やテレビのニュースを頻繁に見ていると、「ここの地域ではこんな新たな取り組みをしている。」とか、「あそこの地域ではこんな独特のイベントが企画された。」とか、各地で取り組まれている先進的で注目に値する様々な情報を得ることが出来る。いろんな事例の情報を得ることで、自分がいろんなことを知っている“つもり”になるのだけれど、実際地域おこしの成功パターンはその土地土地によって様々であり、地域の人柄や土地柄、地理的条件や人的資源、金銭的な条件など、与条件が違えば進め方や正解は自ずと変わってくる。新聞やテレビで見た知識だけを元に、評論家のように「あそこのようにああすれば良い。」と言っていても、その地域で実際に動いてみた人でなければ、本当のところはまずわからないと思う。
そもそも、「マスメディアに取り上げられている=成功している」という訳ではなく、「マスメディアに取り上げられている=目立つことやっている」というのが正解だと思う。福田百貨店も散々マスメディアで取り上げて貰いながら言うのも何なのだけれど、正直な所、それが本当に優れた取り組みであるかどうか、お手本として参考になる取り組みかどうかは、数年後の結果を見てからでなければ判断できないと思う。福田百貨店の取り組みもその真価がわかるのは、数年後にどういう成果が残せたかという結果が出てからだろう。
マスメディアで取り上げられていたとしても、
「こんな面白いイベントが開催されました。」⇒「来場者は想定の半分でした。」
「こんな新しい取り組みが行われました。」⇒「1年で終了しました。」
「こんな商品が産官学共同で開発されました。」⇒「あまり売れませんでした。」
という可能性も往々にしてあるだろう。だから、「マスメディアに取り上げられている=成功している」という勘違いをして、「いろんな事例を知っているから自分は出来る」という気になったり、「あそこでやっているからマネしてみよう」ということでは、なかなか成功しないのではないかと思う。
約1年間福田百貨店と御槇を追いかけて頂き、1時間のドキュメンタリー番組を作って頂いたことも。目立つ所だけではなく、深く掘り下げて取材して頂けて、ありがたかった。福田百貨店に取材に来られる方は、比較的そういう視点を持たれたディレクターさんや記者さんが多い気がして、ありがたいなぁと思う。
以上を踏まえて、いま僕の中で導き出されている結論としては、結局、地域おこしにおいて汎用的な解というのはなかなかなくて、まさにケース・バイ・ケースで、「自分の地域での正解は自分が地域で動く中で見つけ出す」ことが必要不可欠であり、その具体的な取り組みに関しては、「特別なこと・目立つこと」ばかりに目を奪われず、「平凡な日々の充実」を目指すことが大事なのだと思う。
「目立つこと」はあくまでも、「目立つこともない平凡な日々が、平穏に過ぎて行く暮らし」を確立する過程の手段であり、そこに住む人々が「日々充実した平穏な暮らし」を続けて行ける地域こそ、理想的な地域だと言えるのではないだろうか。「特別」だったことが特別ではなくなり、「普通」のことだといつの間にか感じてしまえるまで、生活の中に落とし込むことが出来れば、それが一番良いのかもしれない。
以上、マスメディアと接することで「目立つこと」を経験し、「目立たないこと」に目を向けるようになった福田百貨店店主の、ささやかな気付きでありました。