田舎で暮らすという事
私が暮らす対馬は、春も秋もいつも一瞬で通り過ぎていくような気がしております。待ち望んだどこか切なげで心地好い季節がはかなく通り過ぎていく。早いもので、島で迎える14回目の駆け足の秋を感じている一般社団法人MITの細井です。
立て続けに日本を縦断した台風は、季節の移ろいを更に加速させ、薄手の木の葉を家族5人で奪い合った昨夜の我が家でした。
さて、題目に「田舎で暮らす事」と述べました。いなかマガジンを愛読されている皆様は、地方への興味関心が高いと思いますので、「漁業」という特質の生業と私事ではありますがこれまでの島暮らしの経緯等をご紹介して、迷える方々の参考、足止め!(笑)になればと思います。
今回2度目の寄稿を致しますが、私は魚を釣る仕事「漁師」をしております。
もともと長崎県出身で東京、神奈川で約10年間、仕事→学生→仕事を経験しました。そして24歳頃、漁師を志すようになり、森と海の繫がりを知るために、3年間の神奈川県丹沢での山暮らしを経験の後、対馬に移住しました。
私の場合、漠然と「田舎で暮らしたい」という事ではなく、「一本釣り漁師になりたい」「自分の船を持ち、その事を生業とし家族と生きていきたい」という強い想いがありました。その為、
○漁師、しかも一本釣り漁で生計が成り立つ地
○家族と共に「活きる」環境がある事。
そして、肌で感じる相性、インスピレーションでしょうか。
四国と九州を主に対象とし探しました。東京で行われるIターン就業者フェアに参加したり、各地の自治体や漁協に問い合わせをして、足を運んだ地域もありました。その中で、上記しました漁場と資源の多様さ、実際に足を運んで感じた肌触りで対馬を選択しました。当時、結婚しようと決めていた妻も同じ価値観を抱いていましたが、そこは主婦・母となる身であり、スーパーや総合病院(産婦人科)が近くにある事も対馬を選んだ大きな理由でした。
しかしながら、頼れる人も技も無く飛び込んで「一本釣り漁師」になる事はほぼ不可能というのが現実でした。まずは、その地域の住民となり、信用の後に成り立つ「漁業権の取得」をする事が第一歩。その上で更に自分の船を持ち、己の腕と技術で稼がなければならない。新参者がいきなり飛び込んでやっていける世界では到底ありませんでした。
そこで少し遠回りにはなりましたが、水産会社(定置網漁の会社)に就職し、先ずは地元に馴染み、目標に向かう選択をしました。面接の時に、「釣り漁師になりたい」その思いは親方にしっかりと伝えましたが、「先ずはうちで頑張ってみろ、それでも釣り漁にこだわるなら俺が紹介してやる」と言って頂きました。どんな時でも自分の信念は正直に伝える事は大切だと今振り返っております。
半年後、十分に検討しやる気満々で妻と愛犬と対馬に移住したわけですが、海の仕事と知らない土地での生活はそんないに甘いものではありませんでした。ロープの結び方を初め、何一つわからない仕事、お決まりの強烈な船酔い。そしてアフターファイブがほとんど無い事など、生活観の違いは仕事以上に大きなストレスとなりました(そんな私のストレスを見ていた妻は更に辛かったと後で知るのですが)。例えば、今でこそ対馬中どこにでも「ペット・犬」が見られますが、つい10年程前まで犬を散歩させる人など皆無だったのです。散歩するだけでかなり特質な視線を感じたもので、犬にまつわる事柄も何度か経験しました。今では考えられない事ですが。そうそう、芋焼酎もお店に一本もなかったんです。
やがて仕事にも慣れてくるとやはり釣り漁師になりたい!自分の船が持ちたい!との思いが日毎増すばかりでした。
仕事をしながら、今後どうしたらいいのか悩みましたが、再度の移住を含め一日も早く一本釣りの漁師になる道は無いものか模索しました。そして様々に問い合わせておりましたが、長崎県が任命する「指導漁業師」という漁師の先生を紹介して頂きました。私が住む上対馬町にもその漁業師がおられて、「俺の船で修行するといい、仲間にも頼んであげる。」と話して頂きました。
親方にも正直に相談した結果、「この町で勉強したらいい。ダメだったらまたうちの会社に戻って来い」とまで言って頂きました。お世話になった定置網をわずか一年で辞めるからには、他の地へ越すのが筋だと考えていた私にとって、このように地元の方々に受け入れて頂き深く感謝した事を今又思い出しております。
結局1年で定置網の会社を退職し、先程声をかけて頂いた漁師さんはじめ、一本釣りの漁船に乗船させてもらいながら、平日は生活費を稼ぐ為に建設業でアルバイトをしたりして、更に1年程を過ごしました。この頃三十路前。
とにかくがむしゃらに地域に馴染む事を心がけていました。シケも凪もなく先輩漁師の方々にずうずうしく教えを請い、飲み会や活動に参加しました。職業に関係なく毎日新たに誰かと知り合いになっていく。そんな日々。働かせて頂いた建設現場の高台から海を見おろし弁当を食べる時、漁師になろうと対馬に来たけど、今の自分はこれでいいのだろうかと思い悩んだこともありましたが、その時の思い、経験や人脈が今は大きな糧となっております。
そんな時を経ながら、漁協の組合員資格を取得し、進水25年というかなり古い漁船を購入。対馬に来て3年目の事でした。最初に釣り上げたマダイの感触、やっとスタートに立てたという感激と共に、引き返せない身の引き締まりを感じたことを今でも鮮明に覚えています。現在は2隻目の「海子丸」で操業しておりますが、漁業を取り巻く環境も大きく変わり、漁業自体のあり方も見つめなおす時が来ていると日々感じております。
対馬に移住して13年。11歳、9歳、3歳と3人の子宝に恵まれ、貧乏!ながらも家庭円満で島の生活を送っております。
経済的な豊かさや利便さを求める事を捨て、生きる為に仕事をするのではなく、漁師という仕事をし、その事で家族と生活ができる。そう考えて生きております。
どこで暮らそうとも、なんの仕事をしようとも、生きている限り様々な事が繰り返される。どんなに田舎でも人が数人集まれば当然違う考え方があり、そこに社会が形成されます。むしろ田舎ほど濃密な人間模様が待っている、そう思っております。そしていつの間にかあの時20代だった青年は42歳のおじさんになってしまいました。
私の場合、漁師というかなり特異な職業ではありますが、海の上にいる時間は365分の180日程度。揺れているのは、そのうち一日の約半分。つまり陸での生活が多くの時間を占めています。田舎暮らしがうまくいくか、充実したものになるのか、仕事の成否は当然の事ながら、人間関係の重要さは都市生活よりも大きいでしょう。そして自分よりも家族が地域に対応出来るかにかかっているような気がします。
田舎暮らしを夢見る方々には私のように子育て世代の方ばかりではなく独身の方も年配の方も多くおられると思います。多少はありとも、それぞれにそれぞれのそれなりの喜びと悩みが人の営みの中にある。それが人生だと思っております。
今年は我が社団法人MITが事務局をする、田んぼのオーナー制度で我が家もお米を作り、先日収穫致しました。完全無農薬、手植えの手狩り。今は陰干しをして、脱穀をまっている状態です。
対馬の大地が育ててくれた黄金色の恵を、家族という宝物と共に頂く。そしてその隣に私が釣り上げた海の恵が並ぶ食卓。家族の笑顔。この対馬で生きる事の価値、喜びを噛みしめている秋の一日です。
“実るほど頭を垂るる稲穂かな”
追伸
先日は、MITの新しい仲間の歓迎会。
釣った魚で歓迎会をしました。
サバやブリが最高の季節になりました。