リアルかかしの里山に移住したのは、フクシマを経験したから

2016/04/22

 

 こんにちは!2回目の登場の、広島市の上多田集楽のトん佐藤です。ちょっと、タイトルが重めですが、タイトル通り、僕は東日本大震災を経験しなかったら、里山に住むという選択肢すら持たなかったと思います。

 3月で東日本大震災から、5年が経ちました。そのときの記憶・経験は、僕の中で色褪せることなく、大きな原動力になっています。震災ではたくさんのかけがえない命が失われましたが、僕は震災から多くのことを学び、気付き、それがあって、今の僕があります。失われた命がうかばれるよう、気付きを形にすること、しっかり伝えていくことも、僕の一つの役割だと思っています。

 震災でどんなことに気付いたのか、そしてどんな経緯で上多田の移住することになったのか、ちょっぴり重たい話も含まれますが、今回はお話ししていきたいと思います。

 

 

1.2011年3月11日

 

 震災当時、僕は福島ユナイテッドFCというサッカークラブで働いていました。現在ではJリーグに加盟し、J3で活動していますが、当時はまだ東北リーグというアマチュアリーグから、Jリーグ加盟を目指して活動しているクラブでした。僕は、福島にプロのサッカークラブを作る過程を通じて、スポーツで福島を元気にしたい、という想いで、日々仕事をしていました。3月はクラブで働き出してから2年目に入ったところで、小さいクラブだったので、1人5役くらい任せてもらい、かなり忙しくも充実した日々を送っていました。

 

天皇杯県予選で優勝

 2011年8月の天皇杯県予選で優勝したときの写真。僕が関わった最後の試合でした。

 

 

 その時、あの地震が起きました。今までに経験したことない、凄まじい揺れが襲いました。揺れが激しくて身動きが取れず、事務所に1人だったので、本棚が倒れてきていたら命も危なかったかもしれません。

 揺れが収まると、近くにスクールの教え子がいる小学校があったので、その安否の確認に。泣きじゃくっている教え子もいました。そこから戻ってくると、1階の薬局のテレビに目を疑う光景が。そう、津波です。そこで初めて、事の重大さに気付きました。

 一度全員帰宅になったので、帰路に就く中、今でも鮮明に覚えているのは、いきなり吹雪き出したこと。それまで雪は全く降っていなかったのに、いきなり視界が遮られて、とても不気味な感じがしたことを覚えています。その後のことを、何か予兆していたのでしょうか。。

 

 帰宅すると既にライフラインが全て止まっている状況で、食べ物もなかったので、一時的に彼女(今の妻)の実家へ。実家はコメ農家で、野菜も作っていたので、食料が少しはありました(ただ3月なので、野菜の備蓄は限られていましたが)。その時は何の気なしに夕食をいただきましたが、翌日には、多くの郡山市内はライフラインが止まり、輸送インフラも機能していなかったので、スーパーは営業できず、食料の確保が難しい状況に。このとき初めて気付きました。「僕はこんなにも脆弱の社会システムの上で生活してきていたのか」と。人間の弱さを痛感した瞬間でした。

 

 

2.原発事故。そして避難。震災後に気付いたこと。

 

 そして、原発事故が起こりました。原発についてここで話すのは本筋から逸れてしまうので控えますが、「自然と相反することは、いずれ瓦解する」ということを、深く学びました。自然の中で、その一員として、どう生きていくのか。西洋的な自然を支配するという考えではなく、ご先祖様たちが大切にしてきた、八百万の神という考え方。そうした生き方をしていくことは、何も昔に戻るのではなく、これからの世界をリードしていく生き方になっていく、そう感じました。

 自然を感じ、自然と共に生きていく。そして、これから様々な自然災害が予想されていくなか、本当に大切な人たちを守っていくには、食料がある程度自給でき、土地があり、水があり、何かあったときに呼び寄せることができること。そうしたことを考えていくうちに、里山と呼ばれる環境に強く惹かれるようになりました。

 

 そして、現代人とは切り離せない貨幣経済。本来それは、人間が豊かになるための仕組みのはずなのに、いつしか経済に支配され、多くの人が苦しんでいる。そして、戦争が無くならないのも、原発が無くならないのも、この経済が一つの要因になっている。そんなことにも気付かされました。

 世界が本当の意味で豊かで幸せになっていくには、この経済の仕組みを変えていく必要がある。もっと小さくて、お金の流れや顔、感情の動きが見える経済システム。ちょっと理想的かもしれないけど、そんなことを構築していく必要があるのではないか。そしてそれは、日本の田舎からこそ、生み出しやすいのではないか(むしろ既にあったりする)。そんなことを、震災をキッカケに考えるようになりました。

 そんな震災後の経験・気づきを経て、田舎への移住の想いが、僕の中で強まっていきました。

 震災の半年後、大好きなサッカーの仕事を辞めるのはとても苦しい決断でしたが、様々なことを考慮した結果、福島を離れ、まずは広島市の中心部へ避難しました。

 

 

3.都市での生活、そして移住。なぜ、ここに、カフェが?

 

 ここからは、トーン明るめでいきます(笑)。広島市内には、結局2年半住みました。

 広島を選んだ最終的な決め手は、共通の友人からのオファーで妻の仕事が決まったから。僕はというと、何も仕事を決めずに、とりあえず、行ってみようかと^^; 避難当時、広島で知り合いと言えたのは、その友人の両親と、それ以外に知り合いが2人のみ。今では広島にとても素敵な友人たちがたくさんいるのですが、その時はこんな景色は全く想定外でした!

 そこからは、不思議なご縁から天台宗のお寺で働いたり、サッカー関連のお仕事をさせてもらったり、友人と人材教育事業を立ち上げたり。その事業が形になってきたので辞め、本格的に田舎への移住に動き出しました。

 

Manchester United Soccer Schoolの通訳

Manchester United Soccer Schoolの通訳のお仕事。ちなみに僕はArsenalファンなので、ちょっと複雑(笑)

 

 

 その時点での候補は、今住んでいる上多田集楽を含む、広島市佐伯区湯来町というエリア(その時はまだ上多田のことは知りませんでした)。それまで何度か温泉に入りに行ったことがあったのですが、1.温泉があること 2.市内から1時間以内 3.自然環境 という点で、いいな~と思っていて、知人を通じて湯来の人を紹介してもらい、湯来への移住の相談を始めました。2013年の9月でした。

 

なぜこんな場所にカフェ

 

 すると、相談を始めてすぐのタイミングで空き家が出てきたということで、その家を見に。それが初めて上多田との出会いで、見事にリアルなかかしたち(前号参照)に騙されました(笑)。

 地域の人にも会い、地域のビジョンを知り、ここなら孤立することなく一緒に活動していけるんじゃないかと感じたので、ほぼ即決で移住と家を決めました。するとありがたいことにすぐに歓迎会も開いていただき、地域の人とも繋がれ、翌春の移住に向けて準備を始めました。

 この時点で、家は決まりましたが、仕事は一切決まっていません。広島に来た時と一緒です(笑)。どうしようかな~と思っていたところ、なぜか、家から徒歩2分かからない場所に、なぜかオシャレなカフェが。

 

オシャレカフェ

 

 なぜこんな場所にカフェがあるのか気になったので、冬季休業中ということで、オーナーさんをFacebookで探してアポを取ってお話しを伺いに行くことに(こういうとき、Facebookは便利ですね~)。

 オーナーさんは広島市内でデザインの仕事をされている方で、今は僕が引き継がせていただいている、ほんもろこという魚の養殖事業をこの集落で始められ、ほんもろこと上多田のことを伝えるために、消防団の旧屯所を改装してカフェをオープンされたとのことでした。

 

屯所時代

屯所時代の写真

 

 

 初めてお会いしたのですが、色々話していくと想いが共通しているところがたくさんありました。そして、その時点では、市内での仕事もあり、お店を週2回しか開けられておらず、集落のためにはもっと開けたいな~と考えられていました。

 一方の僕らというと、震災での経験から、妻が食の勉強をずっとしていて、将来的に飲食店をやりたいね、と話していたところでした。お互いの想いが合致したので、僕たちもビックリしましたが、家から徒歩2分の場所で仕事が決まりました(笑)

 

 

4.移住してちょうど丸2年。

 

 そして、移住してからちょうど丸2年を迎えようとしています。この2年間はいろんなことがありました。

・移住

・未経験の飲食店経営

・人生初のお米と野菜の栽培

・まさかの魚の養殖事業

・町内会長に

・新たな移住者

・WWOOFの活用

・娘の誕生

 

ほとんどが初めての経験で大変なことも色々ありますが、地域の人の協力もあり、総じては楽しく暮らせているかなと。娘の誕生は色々な面で大きな出来事でした。

 

 娘の初節句を祝う

娘の初節句を祝う、町内会の集い。地域の皆さんに愛されてます!

 

 

 前回、次回取り上げますと書いたことをあまり書けていないような気がするので、、、次回はもう少し集落のことやタイムリーなネタも書いていきたいと思います。今回も読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

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