円坐から学ぶ生命的な場の作り方1
- 執筆者 吉尾洋一
- 所 属一般社団法人いなかパイプ
2017/05/11
いなかパイプの社内では最近「非構成」の場作りを学んでいます。
説明するのも難しいので自分たちが吸収することに専念して筆無精になっていますが、言葉にして新しいものも創ろうと筆をとりました。
非構成の場ってなに?
非構成がどういうものか説明する前に、「構成」「非構成」の僕の認識をお伝えします。(あくまで自分の解釈です。)
例えば「構成」のワークショップは、一般的にファシリテーターが目的に向かって全体の流れを作っていきます。
それに対して「非構成」のワークショプは、ファシリテーターのような中心的な存在は後ろに下がり全体の動きは自由に展開していきます。
そんな性質を持っている非構成の場では常に何が起こるか予測不能。風の動きが雲の形を決めるように、参加者が生み出したいものがそのまま自然に現れてきます。
非構成の場ではみんなが辿り着いた先が目的地になるような性質を持っている、と言えるかもしれません。
円坐との出会い
一年前までいなかパイプは「構成」の研修ばかりをしてきました。ある時から「非構成」の概念と出会ってから、徐々に新しい場の作り方を試行錯誤しています。その変化があったのは『円坐』がきっかけでした。
『円坐』は 時間と場所を設定して円になって坐るというシンプルな場です。「構成」の場と違って『円坐』の中には色々な要素があるのでそれ以上の説明する時に色んなものがくっついてくるんですが、場のカタチとしてはそれが全てです。
いつも企画を一緒に考えて創ってくれる「ひとことワークス」の池澤良子さんが高知を舞台に毎年1回『円坐』を開いてくれています。
『円坐』にはルールらしきルールはありませんが 必ず時間と場所を見守る守人という存在が一人います。良子さん主催の『円坐』には長年非構成の場に関わり続けた橋本久仁彦さんを守人として場が開かれます。
●四万十の『円坐』
そんな『円坐』僕が始めに参加したのはいなかパイプのオフィスである広井小学校を拠点に四万十で開催してくれた時でした。
何の説明もなく、自己紹介もなく、円形に置かれた座布団の上に坐って『円坐』が始まったとき、
「何か変なことが始まったぞ!」
とワクワクしたのを覚えています。
3泊4日四万十の色んな場所、同じメンバーでこの陣形で時間を決めて坐るのがこの時の『円坐』でしたが、開催中場を重ねる毎にそのグループの話が深まったり、感情的になったり、解体していくような場面に遭遇しました。
日常では見逃してしまうようなことがこの場では個人やグループに関わらず当たり前に表に出てきます。全員でその感覚を確認して場の密度が高まるようなことが何回も起こりました。
(photo by 戸高元太郎)
地域や色々なグループと関わっていると問題の根本をいつまでも先送りにして、結局関係性や問題と関わる意識が消えていくような場面に多く遭遇します。『円坐』にはその根本的なものと関われる場が創られていると感じました。
この『円坐』で直感的にこれは今の時代に求められている場のカタチだと気づき、自分の中で『円坐』の種が生まれました。
●唐人駄場の『円坐・影舞』
2017年4月に僕にとって2回目の3泊4日の高知の『円坐』を、四国の最西南端の足摺半島で同じく池澤良子さんが開催してくれました。
足摺半島は高知の海の近くで育った僕にとって地球を感じられ、四万十よりも自分の原型に近い場所かもしれません。そんな場所で『円坐・影舞』がどんな経験になるのか開催前からワクワクする『円坐』でした。
足摺半島には7000年前の縄文遺跡のある唐人駄場
人工的?な巨石が山に密集して現れている唐人岩
日本列島唯一の黒潮の着岸地である臼碆 (photo by 戸高元太郎)
など地球スケールを体感出来る場所が集っている場所で知る人ぞ知るパワースポットでもあります。長いようで短い3泊4日の『円坐』合宿。
足摺半島の自然に触れながら、自然の中で円になって坐ったり、
(photo by 戸高元太郎)
『影舞』という2人で創るカタチを即興で舞ってみたり、少し現実から離れて旅をしてきたような感覚でした。
宿舎の直ぐ近くの唐人駄場は、昔7000年昔からあったとされる縄文遺跡が円形の広場に配置されていたような場所です。
昭和34年の唐人駄場
都会から最も遠い日本の先っちょである足摺半島という得意な性質は、明らかに参加者に影響していたようです。
不思議なことに僕自身、滞在中に場所から伝わってくるエネルギーに鼓舞されて、話さなくてはという動きがありました。『円坐』を続けてきて円の外の場所の影響が強く現れ、発言し、その場のエネルギーが高まる経験は初めてだったかもしれません。
『円坐・影舞』という外から持って来た要素と、その場所の磁場との親和性を感じることができたのは、とても興味深い体験でした。
生命的な場
『円坐』のグループ内では時々生命的な質感を持つことがあります。
生命的なグループは何かの目的で作り出された「構成」のグループとは違い一つの目的に対しての繋がりは弱いですが、個が個として存在できて、結果的に個も立ち、グループも立つという関係性が生まれる傾向にあるように感じます。
いなかパイプは個々としても組織としても、日々多くのグループと関わり生み出しています。私感ですが、今の時代にはそんな柔軟性と力を持った存在の仕方が合っているのではないかと思っています。
この性質の自分の在り方、グループの在り方、場の作り方は今後も探究して行くことになると思います。
何か面白いものが生まれる予感がしますので、末永く見守っていただければ嬉しいです。