こんな離島・海士町に人が集まる理由は?
2014/06/27
こんにちは!!巡の環の石坂です。海士町は梅雨の時期に入っております。東京で働いていた頃は、雨は喜ばしいものではありませんでした。でも、海士町で働き、お米を自分たちで作ったりするうちに、田んぼに水が必要なことから「恵みの雨」という言葉を実感しています。
今日は晴れ。「あいにくの天気」です。
ここ海士町は「Iターンが集まる島」として注目されています。だけれども、(海士町の地元の人には怒られるかもしれませんが)ここは土地としては「誰しもが住みたい」と思うような土地ではない、と思っています。冬の寒さや風は厳しいですし、もちろん交通の利便性は良くないです(本土-島間の船は1日に数便)。島外からの商品の物価も高いです。海はきれいですが、きれいな海や自然が残るところは、まだまだ日本中、世界中にたくさんあると思います。
そんな島なので、島内外関わらず「なぜこの島に人が集まるのか?」不思議に思われている方が多いです。今回は僕が島に来た経緯も絡めて、海士町に人が集まる理由について書いてみたいと思います。
【今回の記事はこんな内容です】
●海士町にどれだけの人が来ているの?
●僕が島に来た経緯は?
●海士町に人が集まる理由は?
それではどうぞ、ご覧ください!
【海士町にどれだけの人が来ているの?】
ぼくの住んでいる町、島根県隠岐郡海士町。「地域活性化」等の文脈で語られることの多い町です。そもそも島根県全体で人口が県外へ流出していく中、海士町の人口は社会増の傾向にあります。数字で言うと、2004年~2012年の9年間で、361 人のIターン者が海士町に定住しています。(町の人口が約2400人なので、人口の10%を超える割合がIターン者です)定着率は6割ほどですが、ほかの中山間地域に比べると高い割合です。
【僕が島に来た経緯は?】
僕は新卒で、東京は六本木のIT系ベンチャーに入社しました。そんなに大志をもって入社を決めたわけでもなく、会社選びの基準は正直
・仕事がちゃんとできるようになれそう
・給料が良い
という不純な動機でした(笑) ただ、「石の上にも三年」という言葉にもあるように、「少なくとも3年は働こう。そこから次のことを考えよう」と思っていました。
東京から会社の近くに引っ越しシェアハウス生活をしたり、
こんな写真しか無かった笑
友達と夜の赤坂や六本木で遊んだりと、
仕事は大変ながらも、楽しく暮らしていました。
3年働き、そろそろ次のステップを考えようかと思っていた時期に、当時僕の働いていたITベンチャーの同期が求人を教えてくれたのが弊社、巡の環でした。 彼は海士町へ移住し、「隠岐國学習センター」という町営の塾で働いていました。彼からfacebook経由で求人を教えてもらったのです。
最初は正直島暮らしの興味が半分、会社のやっていることがなんとなく面白そうかな、という気持ちが半分で、やはりそんなに想いをもって移住を決断したわけではありませんでした。昼も夜もせわしなく動き続ける東京生活を楽しみながらも、どこか疲れていて、「このままの生活は身が持たないな」と思い、新たな道を探していたのだろうと、今となっては思います。
いずれにせよ、当初は自分自身は、海士町の移住者に対してよく言われる「人生の攻めとして移住をしにきた」「意欲と志にあふれる若者」というわけではなかったことは確かです。(その後、島に渡り、仕事をしたり暮らしを楽しんだり、地域行事に参加する中で、自分の中でどのような変化が起きてきたのかは、また別の機会に書きたいと思っております。)
島に渡ってから彼に話を聞いてみると、彼は今僕が働いている「巡の環」が委託を受けていた交流イベント「AMAワゴン」というイベントの参加者で、そのイベントがきっかけとなり交流が生まれ、結果として移住したそうです。
イベント「AMAワゴン」の交流風景
つまり、簡単に言うと「巡の環→AMAワゴン→同期の移住→自分の移住」というつながりがあったからこそ、今僕がこうして移住して働いているんだなあ、と思います。
【海士町に人が集まる理由は?】
僕個人の例は前述のとおりで、一つのポイントとして、「人のつながり」があったから来た、という事があります。ここからは、もうちょっと汎用化して考えてみようと思います。
なぜ海士町に人が集まってくるのでしょうか?個人的には、それは「自立・挑戦・交流」という町の経営指針と、「定住を求めない」ことだと考えています。
【町の経営指針「自立・挑戦・交流」】
山内町長は著書「離島発 生き残るための10の戦略」で、「町政運営は企業経営である」と仰っています。ですので、海士町の町制の指針は「経営方針」と称されています。この経営指針は、次のようなものです。
「自立・挑戦・交流~そして人と自然が輝く島~」
こちらは海士町役場の写真。経営指針が掲げられています。
平成の大合併の嵐が吹く中で、島前三島内の合併騒動がありましたが、海士町は「島は自ら守り、未来は自らつくる」と決断し、「自立」を決意しました。その後、CAS凍結技術の導入や、いわがき・隠岐牛のブランド化等、様々な「挑戦」を続けてきました。そして、今後も更なる挑戦を続けていこうとしています。その中でも、異質なものを取り入れ、多様性を持ち変化し成長する「交流」というプロセスを大切にしています。
たとえば、弊社の代表の阿部は、Iターンで、海士町で起業しましたが、その時は役場の課長さん達に親切にしてもらったり、飲み会に一緒に行き、議員さんや役場の課長さん、UIターン者、地元中学生が同じテーブルで料理を囲んで、「島がどうやったらもっとよくなるか」を議論していた風景を見て、「この輪に入りたい」と思ったことをあげています。
自立に向けて、様々な挑戦を続ける。
挑戦のフィールドとして、自分が関わる余白がある。
多様な人と知恵やアイデアを交換し、積極的に人と関わり、
人と人とのつながりがさらに広がっていく。
この経営方針が、多くの人に浸透し、実行されているからこそ、人を惹きつけ、人が人を呼ぶのではないでしょうか。
【定住を求めない】
僕はほかの地域に住んだことがないのであまり説得力がないかもしれませんが、比較的に海士町はほかの地域と比べ、「定住を求めない」傾向があると思います。たとえば、「商品開発研修生」という制度。この制度は、当初の目的としては、次の2点がありました。
・「よそもの」の視点で島の宝を探し、商品化につなげる
・島暮らしを楽しんでもらい、その後島外に戻って島の魅力を発信する
結果として、この制度で海士町に入り、定住者が生まれたりもしていますが、元々定住までを求めている制度ではない、ということが戦略的だと考えています。この制度と、実際に島を離れても海士町のことをPRし続けてくれる人の存在から、「いずれ島を離れる場合があるかもしれないけど、その人はきっと別の場所で海士町のことを想ってくれている」という信頼が生まれているように思います。
Iターンとしてその地域にずっと住む、ということは、いわば「異性と結婚する」だったり、「会社に入社する」ような、いわゆる「エンゲージメント」という言葉に近い気がしています。(エンゲージメントは婚約や雇用、約束、という意味です)でも、これって、結構な覚悟がいることだと思うのです。
今回は以下のように考えてみます。
・地域と関わりを持つこと=デート
・定住すること=付き合う、同棲
・永住しようとすること=結婚
田舎の行政は一般的に、永住を求めたがるのでは、と思います。でも、誰かと結婚するときって、お互いのことをよく知って、将来の見通しも立ち、ずっとこれからもやっていける、そして一生添い遂げるのはこの人がいい、という確信が生まれることが必要だと思うのです(僕は結婚したことがないので推測ですが・・・)。
「ちょっといいかも、デートしてみたいな」と思った人と、一生添い遂げることを期待された場合、基本は、すーっと、離れていくと思います(笑)。だから、その地域との関わり(デート)を重ね、「いいな」と思う気持ちが高まってきた結果として定住や永住があるのでは、と思ってます。海士町の良い所は、そんなIターンの気持ちをよくわかってくれていて、門戸を広げ、交流の機会を大切に重ねてきたことだと思うのです。
大学生との交流の機会。町長自ら足を運んで下さいます
【つまり・・・】
やはりわかりやすく異性に置き換えてみると・・・
・志を持ち(自立)、
・挑戦を続け(挑戦)、
・社交的で(交流)、
・焦らず、デートを重ね、お互いの気持ちを高めていける(定住を求めない)
・・・うん、これはモテる!(笑)
【まとめ】
●海士町にどれだけの人が来ているの?
→9年間で361人が定住しています!人口の10%を超える割合がIターン者です。
●僕が島に来た経緯は?
→前職の同期が求人を教えてくれた。その同期はAMAワゴン参加者。つながっている!
●海士町に人が集まる理由は?
→「自立・挑戦・交流」と、「定住を求めない」こと、な気がしてます。
追伸:移住の経緯などを今回は書きましたが、 海士町は「付き合いだしてから魅力がよくわかってくる」味のあるタイプです(笑) どんな変化が起きるか、などは今後また書きたいなあ、と思ってます。