えん(縁)もたけ(竹)なわ リニューアル
- 執筆者 小林恵子
- 所 属えん(縁)もたけ(竹)なわ
2020/03/30
広島からは小林です。祖母たちと、~えん(縁)もたけ(竹)なわ~と称し、地域にある竹藪を活かして、認知症の人の『居場所』と『出番』と『役割』作りに5年ほど岡山市で取り組んでおりました。
「ばばさま認知症となっても、もうひと花咲かせましょ」
と、認知症になった祖母たちと一緒に竹製品を作り販売をしたりしていました。
その祖母たちも大往生をとげ、その後私が交通事故でむち打ちとなり半年ほど療養をし、その後家の事情により引っ越し。いったん活動休止をしておりました。
祖母たちのためにと思っておりましたが、私自身の『居場所』と『出番』と『役割』となっていたことに気づかされました。ただいまリニューアル中です!!
何度か『いなかマガジン』にも投稿させていただいている内容で、重複をしておりますが、ご容赦いただけましたら幸いです。
約8年前、祖母たちが認知症となり、陸の孤島のような日々と思われることもありました。お百姓であった祖母たちは、認知症となってから、いろいろ忘れていくことは自分たちで自覚をしており、忘れないうちに、私たちに色々教えてくれようとしていました。
ブドウや桃の果物を作り、お米や畑で野菜つくり、農業を六十年もしてきていた祖母です。自分たちの山や畑は自分たちで守ってきていましたが、足腰弱り、体も弱り、だんだん守れなくなってきました。守れなくなった山に竹が増え広がっていることを憂えるようになっていました。
当時30代の私は、晴天の霹靂です。山は生態系があるので、自然の力で山は守られていると思っておりました。実は、山は人の手によって守られていたことに私は初めて気づかれました。よく見れば、幼少の頃から山の景色は変わっておるように感じられます。竹だらけとなっています。
高度経済成長により、若い人は働きに出るようになり、山を守ることにまでなかなか手が回っていない状況がありました。私の父も兼業農家ではありましたが、普段は働きに出ているので、山の仕事ができるのはそれ以外の時間となり、できることにも限りがあります。人の手の入らなくなった山は荒れていました。
ウィデペキアによれば『竹害』について
「竹害(ちくがい)とは、かつて筍を採るために栽培されていた孟宗竹の竹林が放置された結果、周囲の植生に孟宗竹が無秩序に侵入する現象のことである」
とされています。
人の手が入らなくなった山は荒れていくこと。生命力の強い竹が増え広がっていること。祖母たちから知らされて初めて知ったことでした。かといって、私がどうすればよいのか。しっかりものだった祖母が認知症になったことだけでも大きなショックです。祖母も介護が必要な状態となり、私自身の生活もあり、その上、荒れた竹藪のことまで・・・
目の間が真っ暗、出口のないトンネルを歩いているような日々の中、「そうだ葉っぱを売ろう」の本に出会いました。
「葉っぱビジネス」で、お元気なおばあちゃんたちの町、徳島県、上勝町の本です。京都や東京などの料亭のお料理に添えられる、もみじや笹などの葉っぱ数百種類を出荷しておられます。葉っぱの仕事を通して、
「毎日が幸せや」
「毎日が楽しい」
といっているお年寄りたちの生活に衝撃を受けました。
祖母たちの当時の口癖は、
「年をとったらええことはない」
「早くお迎えがくればええのに」
気が滅入るような言葉の連続でした。できないことが増えたことのイライラからくる家族への八つ当たりの毎日でした。お年寄りたちのお元気の秘訣を学びに行ける機会に恵まれ、2011年に、徳島県上勝町に1月間、インターンシップに行かせていただける機会に、恵まれました。
自然豊かな環境の中、お年寄りたちは、パソコン、ファックス、タブレットを使いこなし、「呆けてる間はない」「毎日が幸せや」「毎日が楽しい」と、笑顔あふれる上勝町でした。私も本当に楽しいインターンでの生活でした。
そんな中、お元気の秘訣は「居場所」「出番」「役割」があることだと学びました。
人とひと、人と自然、人と社会、人とお金、人と情報など、たくさんのつながりがありました。
当時の祖母たちの生活は、部屋に閉じこもり、こたつに入ってテレビの守り。祖母も家族も陸の孤島のような生活でした。周りにいるものも気が滅入る毎日でした。上勝町のお年寄りたちの生活とは、正反対の鬱々とした日々でした。
私は、
「そうだ!うちには竹薮がある!!!」
と閃きました。
上勝町は、地域にある『葉っぱ』を地域の資源をとして、町は活気づいておりました。私の家には増え続ける『竹』が山盛りあります。祖母たちは、わからないこと、できないことは増えてはいますが、できること、やる気もあります。サポートがあることで、必ず、人様に喜んでいただけることができ、そのことが祖母たちの『居場所』と『出番』と『役割』となるるはずだと取り組んでおりました。
祖母たちの気にしてやまない竹を使っております。縄文の時代から日本人は竹を活用していたとのこと。認知症になった祖母も、竹にはたいへんな親しみを抱いております。
「出番」や「役割」ができることで、人様のために作業している場所が、かけがえのない「居場所」となっています。
竹を通しても、どんどんご縁が広がりました。その祖母たちも三年前に大往生を遂げました。その後、私が交通事故にあい療養をしていたり、入籍により引っ越しをしたりして、~えん(縁)もたけ(竹)なわ~の活動も休止をしておりました。
昨年は住んでいた香川県の小豆島で瀬戸内国際術祭がありました(三年に一度)。瀬戸内の島々で国際的なアート作品が島をにぎわわせます。その中でも 台湾のワンさん作の『小豆島の恋』は竹でできた作品でした。
リーさんの作品も竹でできたものでした。
竹が増えすぎて困っている小豆島だそうですが、作品に竹を使い、竹が足りなくなった地域もあるそうです。国を超えて愛されている『竹』、ますます竹の素晴らしさをひしひしと感じられました。
竹は縄文の時代から日本では編まれていました。日本の竹製品は自然と共生をする知恵の宝庫。日本人の美意識の高さにも感嘆をいたします。
日本は『竹』と『和紙』の文化と言われるよう、日常にはなくてはならないものでした。ざるに籠、建築資材、竹炭、竹炭液、竹垣、ほうきの柄、洗濯竿などなど数え上げればきりがありません。
高経済成長を迎え、竹製品はプラスチックやステンレスにとって変わっていきました。竹が使われなくなると、山の中で竹は増え続け管理の行き届かない竹藪が増えていきました。
竹ばかりが増えると、さまざまな動植物、いろんな種類の昆虫は追いやられていきました。人の手が入ることで守られていた「里山」も荒れた竹藪だらけになった地域もあります。
竹を使うことは、多様な動植物を守ることにもつながり、山がきれいになることは川がきれいになり、海がきれいになることにもつながります。日本の豊かな四季折々の美しい自然を守ることにもつながります。
2018年7月には、広島県安芸郡におり、西日本豪雨災害にあいました。避難場所の図書館で一夜を過ごしました。川が氾濫をし、あっという間に道路や線路が川のようになりました。近所には私の背丈ほどの大量の土砂が流れ込みました。自然の猛威を肌で感じるとともに、自然とともに生きていく大切さを感じました。
できる範囲ながら、災害ボランティアに参加をさせていただきました。土砂かきのボランティアでした。全国から集まられるボランティアさんたちに、ここは孤立しているわけではない、たくさんお応援があるのだと地元民としてとても心強く励まされました。また、自治会の連携の力にも、安心して暮らすための人とひととのつながりの大きさを肌で感じられました。
その後、家の事情で小豆島に引っ越しました。
慣れない土地、ほとんど知り合いのいない中生活がはじまり、一時は心が沈む日々が続いておりました。その後、小豆島の竹細工同好会をはじめ、老若男女のご縁に恵まれてからは楽しく過ごすことができました。人とのつながりの大切さを感じられました。
やっと小豆島に慣れてきたころにまた転勤。竹細工同好会は50キロ離れた広島県竹原市にしかなく、竹細工同好会を立ち上げるため、竹細工体験会を開催をさせていただいております。
竹細工体験会を通して素晴らしいご縁に恵まれ続けております。手しごとをしながらのおしゃべり。無事に完成をした後の皆をいただくお茶をしながらのおしゃべりは楽しみなリフレッシュの場です。
慣れない土地も新しい素晴らしいご縁とともに楽しみが増え続けました。これからも竹を通してより良いご縁がつながりますようこれからも楽しんでまいります。
山は人の手によって守られていました。竹だけではなくいろんな動植物が共生できる山がより良い山であると感じます。核家族化が進み、地域社会の崩壊、無縁社会などのことばが聞かれます。
祖母の介護当初で孤立化していたときは先が見えず、目の前真っ暗な日々でした。細々ながらも、~えん(縁)もたけ(竹)なわ~を通し、老若男女さまざまの素晴らしいご縁が増え広がっていきました。楽しく豊な生活にかわっていきました。
竹の活動を通して色々な人、人と自然とゆるやかに楽しくつながれる活動を目指します。
人や自然が元気になっていくことが、祖母たちの願いであるように感じられています。たくさんの宿題が祖母たちから出されました。これからも竹を通してご縁をたいせつにし、人も自然も元気になれる取り組みを精進をしてまいります。
未熟者ゆえ、今年もどうぞご指導をお願いできましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします!!!
~えん(縁)もたけ(竹)なわ~
小林 恵子