山の上の経済学
2013/04/29
今回のお話は、分かっている人にとっては、
「何をいまさら(-ε-)」
「そんなの当たり前じゃん(´‐ω‐)」
と言われる至極“当たり前”の話なのだけど、
僕が都会に住んでいる時には気付かなくて、
田舎に住んでから気が付いた目からウロコ的なお話なので、
「きっと同じようにウロコがポロっと落ちる人もいるだろう」
と思って、書いてみることにした。
僕が住む御槇(みまき)という集落は、
山の上の独立した集落だ。
隣の集落に行くには、
どっちに向かっても車で10分以上かかるので、
周囲と隔離された1つの独立した村という感じだ。
実際、昔は“御槇村”(みまきむら)という村だった。
ところで、
御槇を一つの村と考えた場合、
支出の方が多くて、
収入の方が少ないと、
次第に村は貧しくなってしまう。
その逆だと、村は栄えることになる。
いや、
何も村単位で考えなくても、
自分のお財布で考えてもわかる単純な理屈だ。
出るお金が多いか、
入るがお金多いか、
という話。
これはお金に限った話ではなく、資源や人だって同じことだ。
で、
当然集落を前向きに維持していくには、
「出る」より「入る」のが多い方が良いだろう。
全国の田舎がこぞって、
“村おこし”や
“観光アピール”や
“企業誘致”や
“移住促進”などをしているのは、
『ヒト・モノ・カネ』が、
「入る」仕組みを作りたいからだ。
さてさて、
では現状を考えてみるとどうかというと、
基本的に田舎から「ヒト」は出て行く。
“学校がないから”
“働き口がないから”
“お年寄りが亡くなって天国へ…”
という感じで人は田舎から外に出て行く。
ちなみに御槇には中学校がないので、
中学生になるとみんな中学校の近くの寮に入る。
つまり、
13歳になると早くも“流出”するのだ。
で、
当然大学生になる頃には御槇から…、
というか宇和島から、愛媛から、
若者が外へと出て行ってしまう。
で、
大学を卒業すると都会で就職を決めて、
田舎には帰って来ないわけだ。
かくして「ヒト」の流出は止まらない。
「モノ」と「カネ」は連動している。
「モノ」は外に出て行くときに、
対価として「カネ」が入ってくる。
つまり、
「モノ」を流出させて、
「カネ」が入ってくるというのが、
基本的な仕組みだ。
御槇の「モノ」というと、
米や木材ということになるだろうか。
「米を農協に売って御槇の人の収入になる。」
「木材を出荷して、収入を得る」
そういうことだ。
そして、
「カネ」について。
田舎に住んで発見したことなのだけど、
地元で採ったお茶を飲めば、
御槇から「カネ」は“外”に流れて行かないのだけど、
伊○園のお茶を自販機で買うと、
「カネ」は“外”に流れ出ていく。
それはお茶に限った話ではなくて、
「カネ」で買えるものほぼすべてがそうなのだ。
御槇に1件だけ農協の小さなマーケットがある。
そこに陳列されている商品を見てみると、
パン・アイス・お菓子・牛乳・味噌・醤油・長靴
手袋・漬け物・肥料・鎌・灯油・ガソリン・電球etc
どれをとっても、
御槇の外で作られたものであり、
それを買うことで、
「カネ」は御槇から“外”に流れ出ていくことになる。
ヤマザキや森永や明治やマルコメやキッコーマンがあるところへ、
「カネ」は流れ出ていくのだ。
一方、
御槇には地元のおばちゃんが作っているお豆腐屋さんがある。
ここで豆腐を買うと、
御槇から「カネ」は“外”に流れ出て行かず、
“内”で回るだけだ。
そういう目線で見てみると、
現代の工場生産が主流の社会の中では、
ほとんどの売り物は地域の“外”から来たものであり、
「モノ」を買う行為で、
「カネ」はどんどん地域の外に流れ出て行くのである。
田舎の必需品“車”などを買おうものなら、
すさまじい額の「カネ」が、
集落の外に流れ出ていくのである。
少し話はそれるが、
四国の田舎をドライブしていると、
「何でこんな僻地に集落が成り立っていたんだろう???」
と思うことが結構ある。
写真はイメージ
よくよく考えれば、
昔々は、
地域で「モノ」と「カネ」という経済が回っていたのだろう。
地元で採れた物や、
地元で作った物を、
地元で消費していれば、
お金は地域で回るだけで、
外には出て行かない。
むしろ、
野菜や魚や木といった、
自然の中から毎年持続的にとれる資源は、
自然からのプレゼントであり、
地域から「カネ」を減らすことなく「モノ」与えてくれるわけである。
その集落で継続的に採れる自然の恵みの量が、
その集落の豊かさであったのではないかと思う。
だから自然が豊かで、
ある程度の身の回りの物を作れる職人がいれば、
どんな僻地であっても、
「モノ」と「カネ」をまわして、
集落の生活を維持できたのではないだろうか。
つまり、
昔は100円(100銭?)の買い物をすると、
地域内の他の人に100円が“移動”しただけなので、
地域として「カネ」の総量は変わらなかったのだけれど、
今は100円の買い物をすると、
100円ずつ「カネ」が“外”に流出してゆき、
100円ずつ地域が貧しくなっていくということだ。
こんなことは別に僕が説明しなくても、
当たり前すぎる話なのだけれど、
わざわざ書いているのには理由がある。
というのも、
この当たり前過ぎる理屈は、
都会に住んでいると意外に分からないのだ。
というか、
分かる分からないではなく、
全く意識しないといった方が良いかもしれない。
都会に住んでいて、
「自分のところの市や区に入るお金を増やそう」
ということを考えるのは、
役所の職員や市議会議員や商工会の人くらいだろう。
わざわざ一市民が考えたりはしない。
第一、自分がそうだった。
大阪に住んでいる時に、
自分の自治体の会計収支になんて、
そんなに深く興味を持ったことはない。
「赤字じゃなきゃいいな~」くらいのものだ。
そもそも規模がデカすぎて、
一介の市民には把握など出来ない。
ところが、
御槇のような小さな集落だと、
集落に入ってくる「カネ」と出て行く「カネ」が、
一介の村人にも目で見るようにわかる。
「カネ」の入口と出口が大体察しが付くのだ。
余談だが、
きっといまの御槇で一番の「カネ」の入り口は、
個人レベルではお年寄りの『年金』、
公のレベルでは『補助金』や『公共事業』ではないだろうか。
それとは別に、
都会に住んでいると、
「自給する」という概念がない。
お茶を自給・コメを自給といった発想が思い浮かばない。
大阪の食糧自給率は2%だとか。。。
思い浮かばないのも無理はない。
さて、さて、
そんなわけで、
田舎において豊かさを求めるのであれば、
集落で自給できるものは自給するというのが、
良い方向性に思える。
米や野菜、お茶やお菓子といった食べ物だけでなく、
服や農機具、道具類などにしても、
基本的に自給した方が集落としては豊かになるはずだ。
豆腐屋があり、
パン屋があり、
酒造があり、
お茶農家があり、
米農家があり、
木おけを作る職人がいて、
竹かごを編む職人がいて、
紙を漉く人がいて、
家具職人がいて、
林業の木こりさんがいて、
大工さんがいて、
という感じで身の回りの物を地産地消出来るようになれば、
地域で「カネ」が回り、
集落に「ヒト」を抱えることが出来る。
「ヒト」が生きて行けるのではないか。
と思う。
それはすなわち、
昔の暮らしに戻ることに他ならないかもしれない。
とはいえ、
木を切るためのチェーンソーは“外”から買ってくるし、
移動に欠かせない車は“外”からだ。
道具と言われるものはほぼ全て、
あれもこれも“外”からじゃないと賄えないものばかりだ。
今こうして記事を書いているパソコンも、
インターネットにつなげるための光ケーブルも“外”のものだ。
だから昔の暮らしに戻すというのは、
なかなか現実的ではない。
よって、
さっきの理想は、
実際は“机上の理想論”でしかない。
ただ、
原理主義的に「すべてを自給しなくてはいけない!」
というのではなく、
「出来るものから地産地消~♪ヽ(´∀`*)」
という意識を持って物事を進めている方が、
きっと地域は豊かになると思う。
集落を維持していくには、
それと併せて、
集落の“外”から、
観光や特産品の販売などで、
『外貨獲得』ということになるのだろう。
それがグリンツーリズムや農家民泊、
田舎資源の創出などの観光事業であり、
特産品の開発であり、
村おこしであり地域活性と言われているのだ。
だがしかし、
この『外貨獲得』というのがクセモノなのだ。
『「出る」より「入る」方が多い方が良い。』
という法則は誰しも異論がないだろう。
最初にも書いたが、
個人のお財布だって、
「出る」より「入る」のが多い方が良い。
しかしこれは、
ご家庭の財布の中身に始まり、
田舎の集落の発展の話につながり、
実は国家間でやっている経済戦争とも共通する、
同じ論理なのだ。
限られた富の奪い合いなのである。
他の地域から「ヒト・モノ・カネ」を集めるということは、
当然、
他の地域の「ヒト・モノ・カネ」が減るのである。
貿易赤字・貿易黒字というのを、
国家間でやるか、
地域間でやるかという話なのだ。
田舎の活性・地域おこしというのは、
資本主義経済の経済戦争と根本的には変わりはない。
それを是とするか非とするか、
考えてみる必要はあるだろう。
とはいえ、
基本的に田舎の現状は、
「ヒト」も「カネ」も多大な「貿易赤字」状態。
せめてトントンにするくらいのことは必要だろうとは思う。
いま流出する一方の分くらいは、
取り返しておかないといけないだろう。
(都市部から。)
そこから先は、
『貿易トントンの地産地消』、
“富まず貧せず”くらいが良いのではないかと、
個人的には思ったりするのである。