あなたは何しに四万十へ?① ざっくり生い立ち・旅立ち編

 こんにちは。いなかパイプの通称:JAMこと、竹内です。四万十に来て早7ヶ月が経とうといています。
 四万十にきてよく聞かれることのひとつに「なんで四万十に来たんや?」ということ。

 最寄りのコンビニ車で30分!というこの田舎町に移住してきたことが不思議だという方もいます。若者が日々出入りしている集落ではあるけれど、来るたび来るたび疑問に思う様なのです。

 そこで、勝手ながら四万十に辿り着いた経緯を、いなかマガジンを通じて書き綴りたいと思った所存です。お付合い頂けたら嬉しいです。

 

蒲郡 竹島

近所の観光名所

 

 わたしは愛知県の田舎の港町出身です。田舎者が都会に憧れ、東京の服飾専門学校進学を機に18歳で実家を飛び出します。
 洋服が大好きで洋服に携わる仕事がしたい。というのは建前で、今思えばどうしてもやりたいことだったわけでもなく、ただ都会に出たかっただけ。

 当時は本気で思っていたはずですが、その時好きだったことをひとつピックアップし将来にこじつけていたように思います。
 入学程なくして気がついたのは、

「わたし、服、あんまり好きじゃないかも・・・。」

好きは好き!ですが、夢中になれるほど気持ちを注げないことに割と最初の時期にハッとします。それでも無事卒業できたのは専門学校で出会った皆のおかげだと思います。

 

 2年目は課題に追われ、

「自分の身に何か起こらないかな。そしたら課題ださなくて良くなるのになー。」

と不謹慎なことを度々思うほど頭がパンクしそうだった思い出はありますが、学校に行くことは本当に楽しかったです。それでもこの先東京で暮らしていくことがイメージ出来ず、東京に残ることを疑問に感じていました。

 東京を離れるのは寂しい。でも、このまま何をしたいのかわからない状態でこのまま生活していくのか・・・。とある人のアドバイスの元、東京に残るメリット・デメリットを書き出してみたら、デメリットの方が数倍も多かったんです。

「よし、帰ろう。」

卒業して数ヵ月後、東京を離れる決断をしました。

 

東京 専門時代

 

 地元に戻り就いた仕事は結局アパレル業界でしたが、名古屋で一人暮らしをしながら当時は満足のいく暮らしをしていました。

 その会社ではアパレル雑貨の企画営業を数年続けていましたが、企画課全員に東京転勤の辞令がでる。

「東京に戻りたくない!!」

次も決まらぬまま勢いで会社を退職。純粋に今したいと思うことをしてみよう。次の仕事を決める前に自由に時間を使おうと旅に出ようと思い始め、響きが良いからと世界一周の旅に出ることを決めました。

 昔から父親の影響で夕飯の時間は世界のドキュメンタリーや旅番組ばかり見ていたからなのか、うっすら海外に興味を持っていました。テレビ番組を見ながら

「いつか行ってみたいなー」

と色んな場所が特集される度に言う父を横目に、自然と自分の欲求にインプットされていったのかもしれません。

 

 さっそく世界一周に向け、まずは旅の資金集め。人生初の貯金生活がスタートし、順調に目標金額を達成。約1年後に日本出発を決めます。

 出発当日は中学の同級生3人が空港まで送ってくれました。こっそり両親も見送りに。
 あっさりとした父の「気をつけろよー」の一言に「心配なのを隠している感じがした!」と勝手に感じ友人ひとりが泣きそうになっていたのを思い出します。でも本当に心配してくれていたんですよね。

 心配性の母親は私が旅立つことをなかなか納得出来ず、「もしも死んだら、それは人生!」と無理やり自分自身を納得させるために縁起でもないこと言ってたぐらいですから。

 そんなこんなで初の海外一人旅スタートです。(しかも海外たったの2度目!) 韓国通の友人に飛行機の乗り方を強めに指導され、出発!

 

世界一周出発

 

「いってきまーす!」(※空港でプチ送別会してもらったからホロ酔い。)

 

 まず旅に出る上での不安要素① 英語が全然できない。学生の頃から英語苦手でした。テスト前だけ要点抑えて勉強。

「HOW ARE YOU?」でさえすぐに応えられず、「あれ?どういう意味だったっけ??」となるくらいの乏しい英語力を、少しでも旅を楽しむために成長させようと、旅をスタートさせる前にフィリピンの語学学校に数週間滞在することにしました。

 

 なんでフィリピン?という方に。フィリピンで英語は第2の公用語として広く使われていて、ほとんどの人が英語を話せます。

 アメリカ、イギリスに次いで世界で3番目に英語が話されている国だそうですよ。韓国人・日本人経営の語学学校がもの凄くたくさんあります!

 最初は全くといっていいほど話せなかった英語もコミュニケーションが徐々に取れることが嬉しくて、勉強にものめり込んで行きました。一番英語に夢中になった理由は

「この人達ともっと会話がしたい」

と思えたこと。学校のフィリピン人の先生達が素敵だったことが大きかったです。
 この人たちのことをもっと知りたい、もっと深く話したいと思ったら自然と英語を覚えようとなりました。

 

フィリピン

 

「今日聞かれたこと、上手く伝えられなかった。」

「今日あったこと、明日先生たちに教えたい。」

 英語の場合は単純に単語を調べ、言葉をどうやって繋ぎ合わせるかを必死にしていました。

 どうやって言えば伝わるだろうとか、話すペースとか間とか、相手のことを想像して話すと伝わりやすかったりするのかなと。視線だったり表情だったり。これって英語だけじゃなくて日本語でも同じことなんじゃないかと思います。個人的な考えですが・・。

 フィリピンを後にし、旅の本編。まずは旅人定番コースといわれる東南アジア陸路旅のスタートです。

 わたしはタイ→カンボジア→ベトナム→ラオス→タイの陸路コースに結果なりました。

 きつかったのはベトナム→ラオスと国境を越える24時間のバス移動。観光移動バスらしきものをちゃんと予約したはずなのに、ラオスに出稼ぎに行くらしきベトナム人と同じバスに乗せられました。いくら文句を言っても

「お前の予約したバスはこのバスだ。今日はもうこのバスしかない。」

の一点張り。

「きー!!くそー!!」

怖かった・・・。無事ついたから良かったけれど。

 到着したラオスで意識し始めたのは暮らしについて。ラオスの民家にお邪魔したとき、生きる力を見た気がしました。別の国の人たちがどんな生活をしているのかを見てみたいというのが目的のひとつでもありましたが、

「これだ!私が見たかったのはこういうことだ。」

色んな事を工夫して、豊かに生きている現地の人達。その人たちにとっては当たり前の生活の一部。

「へー!えー!」

と関心ばかりしていると

「君は何も知らないんだね!」

と言われたことが結構な衝撃だったんですよ。ライフラインが充分でない場所で自分が出来ることって無いに等しい。生きていく力が無い。相手は冗談交じりに言ったこと。しかし、その通りだと自分自身感じたことでその一言が東南アジアの旅の中で一番印象に残る一言になりました。

 その後、東南アジアを後にし、インド・ネパールを廻る。

 

インド ハンピ

インド ハンピのマーカンダ丘から

 

インド ゴア

インド 働く現地の子供達

 

インド ハンピ2

インドの・・・バイクと服装のミスマッチ感が良い。

 

 ラオスを出てからはその街の「暮らし」をより意識して見るようになりました。

 旅を続けて1年弱くらいでしょうか、色んなところを転々とし、いわゆる「沈没型」とは違うスピーディーな旅をしていた分、少し旅にも疲れてきた竹内。

 旅中よく耳にしていた“ワーキングホリデー”をしてみようと思い立つ。旅をしながら働くことが出来るこの制度を利用しない手は無い!資金の調達にもなるし、英語の勉強にもなる! 次の目的地はオーストラリアに決定!!

 オーストラリアに行ったことで私の価値観は決定的に大きく変わった。四万十に辿り着いたのは、オーストラリアに行ったことがきっかけかもしれません・・・。

 

次回はワーホリ出逢い編。

 

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